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A Manifesto · MMXVII
A Declaration of

不动产
创新
宣言

为 日 本 掀 起 范 式 转 移
森田 夏光
A.D. 2017
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— Contents —

目 录

  1. 十年之后的对答 —— 2026 年序(书评)A Reader's Foreword, Anno Domini 2026
  2. 序言 —— 为日本掀起范式转移Preface
  3. I 「美学价值」决定物业的寿命Chapter One — Beauty Decides the Lifespan
  4. II 最大化「终生价值」Chapter Two — Maximizing Lifetime Value
  5. III 追寻美的旅程Chapter Three — A Journey in Search of Beauty
  6. IV 为不动产带来创新Chapter Four — Innovating Real Estate
  7. V 对谈 —— 日本的居住文化真能改变吗?A Dialogue with Fabrizio Grasselli
  8. 不动产创新宣言The Five Articles of Declaration
Foreword · MMXXVI
十年之后 · 二〇二六年序

十年之后的对答

A Reader's Note on Re-encountering the 2017 Manuscript

从 2026 年的当下,回读写于 2017 年的《不动产创新宣言》,是一种奇妙的阅读体验。执笔者当时是抱着可能被讥为「空想」的觉悟写下这份手稿的。然而如今重读,书中所预言的许多事,正由作者本人之手,化作一座座具体的建筑成为现实。假说,已成为施工图。

假说成为现实的部分What the manuscript got right

本书的核心,是一个在当时颇具挑衅意味的命题:「正是美学价值催生经济价值」。在多数开发商视「美为成本」的时代,作者将其重新解读为「协同」。十年之后方才明了:这一重读不仅正确,且在现实中以更猛烈的方式显现。在全球资本无国界流动的时代,东京的超一等地段早已不再是国内市场的延伸,而是与纽约、伦敦、香港同台受评的对象。而能在这一舞台上胜出的物业之条件,恰如本书所描绘——普世的造型、真实的材料、被时间打磨的美。

还有第二个得到验证的假说,即「开发商成为风险承担者,立于联盟的中心」这一结构论。本书末段,作者提出由开发商统合设计者、匠人、建筑师与供应商的「明治维新型」组织模型。这正是 2026 年当下 MTM Lab 的实现本身。在与大型综合承包商的合资结构中,策划人掌握创意方向,编组专家团队。本书十年前写下的「理应如此」,如今已进入可改写为「我们正如此运营」的阶段。

再者,对「30 年即遭拆除的住宅」之愤怒。这依旧是有效的批评。在大众市场,这一结构几乎未变。唯独在面向超高净值人群的最顶级产品上,本书的逻辑彻底获胜。以百年为单位保值的建筑,在日本的土地上、以日本的身份认同来设计——这一思想绝非空谈,如今已作为项目的指导方针而运作。

当时尚无法言说的、那之后What the manuscript could not yet name

当然,十年并非短暂。作者的思考本身亦在深化。2017 年版的三大支柱「精炼·情感·永恒」,至今仍是有效的轴心。但若是当下的作者,必会为其再添第四根支柱——「不可复制性(irreproducibility)」

2017 年的本书,将「美」作为终点来论述。但从十年后的视角看,美是必要条件,而非充分条件。同样美丽的建筑,原理上可以建造不止一座。令百亿日元标价成为可能的,不只是美,更是围绕该物业的关系、语境与历史——它们独一无二、别无他处。简而言之,这便是由熵之收敛而成的信息结晶。世界若放任不管,必然向混乱扩散。然而真正的不动产,会抗拒这一洪流,将无数的事件、关系与时间之信息收敛于一点,凝固为再也无法解开的秩序。所谓不可复制,正意味着无法从外部重构这枚结晶。而永续之美,所指的正是这结晶化的信息本身——是本书当时尚无言辞可名的、那一维度的价值。

此外,本书中还萌生着「时间的三维化」这一构想,却尚未被明确言说。2017 年的作者,主要将不动产作为「建筑(物理性的硬件)」来论述。而 2026 年的作者,则将不动产视为「时间层层叠加之处」。在空间的三维之上再加一根时间轴,而这第四维度才构成真正的价值——这一框架,是将本书的逻辑再抽象一层之后的自然进化。能留存百年的建筑,便可说是一只能容纳百年之事件与关系的容器。

而今日重读仍历久弥存者The durable core

本书最具价值的核心,其实正是追求「真实(authenticity)」的姿态本身。在 AI 已能大量生产「差不多」之物的 2026 年,这一姿态的重要性,较之 2017 年反而更增。更快、更便宜、差不多就行——这套逻辑,在技术上已被 AI 超越。正因如此,人类应当伸手触及的领域,已转向 AI 无法复制的、不可逆的、独有的、需要时间与志向之物。本书对这一到来的预告,虽只字未提 AI,却精准无误。

还有一点。本书处处重复的「不动产是文化的基础设施」这一主张,如今读来更显厚重。建筑的品质,滋养着栖居其中之人的感受力,而这又孕育出下一代的文化——一种文艺复兴式的世代论。这并非经济原理,而是文明的设计思想。由此可知,本书真正的野心,从来不是某一开发商的事业计划,而是改写日本的文化操作系统。

致读者A note to the reader

接下来将要读到的,是 2017 年的文字。它几乎未经改动,以当时的原貌收录于此。其中一部分预测(对为政者的提及、价格水平的数字、「最高价物业」的举例等)已然过时。连同这些在内,我们仍刻意以当时的温度原样呈现。因为这封书简真正的力量,不在于结论的正确,而在于抵达结论的那一段思考的运动

十年前的作者在何处困惑、在何处确信、又在何处向未来伸出手——作为一份可供追体验的稀有记录,这本书至今仍然鲜活。而且,恐怕再过十年、乃至百年,其根本之处也不会过时。这或许正意味着:本书自身所定义的「永恒」这一条件,正由本书自身所满足。

— A Reader's Foreword —
2026年4月 · 書評として
Preface

はじめに
── 日本にパラダイムシフトを起こす ──

パラダイムシフトという言葉があります。価値観の転換という意味です。私の目的は究極的にはただ一つ、日本のこれまでの価値観、日本人がこれまで信じてきた価値観を壊すことです。日本にパラダイムシフトを起こすことです。

そのために、まずは不動産業界、建築業界の価値観を変えていかなければならない──。この本の本質的なメッセージはその一点にあります。

「新しいものが最もいいものである」。それが日本の不動産や建築におけるこれまでの価値観でした。その決定的に誤った価値観を変えて、「本物」をこの日本に根づかせていかなければならない。私は本気でそう考えています。それが日本の文化を救い、経済を救うことになると信じるからです。

不動産とは人々の生活やビジネスの舞台になるものです。あらゆる人間的活動のインフラです。その最も大切なインフラを、明治以降の日本の人々はいとも簡単に破壊してきました。建てては壊すという愚かな行為を繰り返してきました。なぜか。「新しいものが最もいいもの」だからです。古くなったら、壊して新たに建てればいい。それが日本の価値観だったからです。

その結果、日本の不動産市場では、膨大な価値が失われてきました。これまでに行われてきた住宅投資額の累積と現在の住宅資産額を比べると、その差は約500兆円。投資額を500兆円も下回る資産額しか積み上がっていません。つまり、建てても建てても資産にならず、損失だけが膨らんできたのです。

それは誰にとっての損失か。住居やビルを建てるためになけなしのお金を払った一般の人々の損失です。得をしているのは、ゼネコン、ディベロッパー、資金を融資する金融機関、そして国です。建てては壊す、を繰り返せば、そのつど建設業者と金融機関にはお金が入り、国には税金が入ります。しかし、人々の手元には何も残りません。

「不動産は資産になる」と言われて家を建てたのはいいけれど、20年も経てば市場価値は限りなくゼロに近づき、取り壊すしかなくなった。そんな住居が資産になるはずはありません。

図 表 一
資産にならない日本の住宅
Investment Cumulative vs. Asset Value · Japan
0 200 400 600 800 単位 : 兆 円 投資累積 ~ 800兆円 資産額 ~ 300兆円 — gap — −500兆円 disappeared value 1970 1985 1995 2005 2015 住宅投資累積額 住宅資産残高
Figure I 建てても建てても資産は積み上がらず、累積投資との乖離は拡大し続けてきた。

人々を幸せにしない構造

つまり、これまでの日本の不動産の構造は、いわば普通の人々からお金を巻き上げるだけの仕組みになっていたということです。巻き上げられたお金がもし残っていたら、人々は、例えば家を思い思いに改装したり、絵を飾ったりしながら、「住む」ということの文化的価値を高めることができたはずです。もし、住居が本当に資産になって、経済的価値を生んでいたら、それをもって人々はもっと豊かな生活ができたはずです。そして、それは国の豊かさに直結していたでしょう。

日本の住居の平均的な寿命は30年程度とされています。物理的に住むことができても、市場価値はとうの昔になくなっているので、お金をかけてリフォームすることもしない。だから老朽化するにまかせて、やがて誰も住まなくなる。いま全国各地で深刻化している空き家問題の背景には、こうした事情があります。

住居は資産にはならないことを、日本人は100年以上にわたって、この目で見続けてきました。だから、少なくとも時間の経過とともに自動的に価値が下落することはない土地に、より多くのお金をつぎ込んできたのです。しかし、不動産の価値は上物ではなく土地そのもので決まるという考え方は、実は日本だけの極めて特殊なものです。

海外の多くの国では、土地とその上に建つ建物を別個の資産として捉えることはしません。というより、「土地の資産評価」という感覚自体がほとんどありません。不動産の価値とは、そこに建っている建物の価値で決まるからです。

30年たっても、50年たっても、100年たっても取り壊されないどころか、歴史を経るに従って価値を増していく。それが「資産としての不動産」ということです。

そうでない不動産は、つまり日本の不動産のほとんどは、資産ではなく耐久消費財です。耐久消費財とは、つくられた瞬間、買った瞬間の価値が最も高く、あとは徐々に価値を減じていき、最終的に価値がゼロになるもののことです。

私は、日本の不動産のこのような現状にたいへんな危機感を持ってきました。このような構造が、まさしく日本人の「幸せ」や「豊かさ」を奪っているからです。人々は幸せになりたいと思っている。豊かになりたいと思っている。しかし、そうはならないような構造がある。だとすれば、その構造を変えていくしかないのです。

100億円のマンションを東京に建てる

戸建て住宅やマンションは、一生の買い物と言われます。おそらく、人生で最も高い買い物が不動産であることは間違いないでしょう。

しかし日本の不動産は、海外諸国と比べて決して高くはありません。むしろ、不当に安いと言ってもいい。ニューヨーク、ロンドン、パリなどと比べて、東京の不動産の価値は極めて低いのが現状です。

例えばニューヨークには、ひと部屋の価格が10億円を超える物件がごろごろあります。その中には、築100年を超えている物件が珍しくありません。もちろん、ニューヨークにはトランプタワーのような、豪華で比較的新しいビルもたくさんありますが、不動産価値から言えば、古くていい物件にはどうしても引けをとります。ジョン・レノンが住んでいて、今もオノ・ヨーコが所有しているダコタハウス(1884年竣工)と、トランプタワーの物件価値を比べれば一目瞭然です。その差は決して埋まらないでしょう。おそらくダコタハウスの価値は今後も上がっていくはずだからです。

100年たっても価値が減らないような、むしろ年月とともに価値が上がっていくような建物を建てることができれば、日本の不動産の文化は一変するでしょう。それは絵空事でしょうか。そんなことはありません。一室100億円で売れるようなマンションを東京に建てることは決して不可能ではない。そのことを、私はこの本の中で語っていきたいと思います。そして、それが日本という国を本当に豊かにする道であるということを。

不動産イノベーションが日本を救う

私には、それができるという圧倒的な確信があります。日本の不動産ビジネスの悪しき構造をぶち壊し、日本の不動産を本当に資産にして、その不動産が生み出す価値が日本という国を豊かにし、「本物」を大切にする新しい文化を根付かせていく──。それは絶対に不可能ではないという、揺るがぬ自信があります。

必要なのは、強力なイメージです。成功のイメージです。人の意識には、潜在意識と顕在意識の2種類があると言われます。支配的なのは表には出てこない潜在意識で、人間の意識の9割は潜在意識であるとされています。いかに言葉で「できる」と言っていても、心の奥の方に「無理だろう」という思いがあれば、それが人の意識を支配してしまうのです。だから私は、絶対に「無理だろう」とは考えない。そもそも「無理だろう」という思いはひとかけらもありません。

人は、過去にならって未来をイメージするものです。過去の経験があって、「これまでがこうだったから、未来もこうなるだろう」と考えるものです。未来の原因を常に過去に求めてしまうものです。

その発想を変えなければなりません。必要なのは、まず未来を想定して、そこに達成したときの自分を鮮やかにイメージする力です。まったく新しいステージにいる自分を想像する力です。

ここにまったく新しいアイデアがある。そのアイデアがばかげて見えるのは、過去に捕らわれているからです。過去を尺度にしているからです。未来を基準にすれば、ばかげたアイデアなど一つもないのです。必要なのは、本質的な意味での未来志向なのです。

変革者、イノベーターの条件は、人に指差して笑われるような夢を持っていることだと言われます。その点をもってすれば、私はイーロン・マスクにもセルゲイ・ブリンにもスティーブ・ジョブズにも負けません。

日本は今、確実に斜陽化しています。人口は減り、GDPも下がり、国力の総体が減退している。ある人々は、それを仕方がないことととらえ、縮小していく国家をいかに維持するかを考えています。ある人々は、バブルの夢よもう一度と、奇跡的な逆転劇が起こることを信じています。

そのいずれもが誤りであると私は断言できます。日本の斜陽化を防ぐには、あらゆる生活と産業のインフラである不動産の仕組みと文化を根底からから変えるほかないのです。その不動産のイノベーションこそが日本を救うのです。

多くの人は、この「宣言」をばかげた夢というでしょう。しかし、この本を最後まで読んでいただければ、それが決して絵空事ではないことがわかっていただける。そう私は信じています。

株式会社MORIO 代表取締役社長
森 田 夏 光
Morio the Mann
— 序 終 —
Chapter One

「美的価値」こそが
物件の寿命を決める

フラットアイアンビルの衝撃

フラットアイアンビル — ニューヨーク
Plate I ニューヨーク、マンハッタン。ブロードウェイと五番街が交わる三角の地に建つフラットアイアンビル。

ニューヨーク、マンハッタン。マディソンスクエアパークの南にそのビルはあります。五番街とブロードウェイが交わる三角形のエリアに建つフラットアイアンビル──。高さ87メートル、22階建てのそのビルの前に立って、私はしばらく身動きが取れなくなりました。

三角形の独特のフォルム。微細な彫刻を施した石のパネルをはめ込んだ外観。美しい曲線。写真では何度も見てきた建物でしたが、いざ間近で、自分の目でその建物を見上げると、その迫力と美しさに圧倒されるほかありませんでした。

このビルは、1902年にダニエル・バーナムという建築家が建てたものです。100年以上前に建てられたビルがマンハッタンの一等地に今も変わらぬ姿で建っている。それだけでも驚きですが、さらに驚くのは、このビルがたったの10カ月で建てられたという事実です。

このことは、私たちに二つのことを教えてくれます。一つは、本当に美しい建物は、100年たっても決して取り壊されることなく、残り続けるということ。もう一つは、そのような美しさを現代において実現することは決して不可能ではないということです。

例えば、パリの中心部には「オスマン建築」と呼ばれる、石造りの素晴らしい建物が並んでいます。まさしく歴史の風化に耐えて残ってきた建築物ですが、このような建物を現代において再現するのは、不可能ではないまでも、かなり難しいでしょう。なぜなら、あれらはすべて、強大な力を持った貴族や特権階級にある市民(ブルジョア)が長い時間をかけてつくった建築物だからです。

それに対し、フラットアイアンビルは、鉄骨で骨組みをつくり、そこに石をパネル化してはめこんだものです。つまり、私たちがよく知っている近代建築の方法で、しかも極めて短期間でつくられたということです。

100年にわたって価値を失わない、いや、時間の流れの中でむしろ価値を増すような美しい建物を現代の方法で建てる──。これは、日本の不動産と住文化を業界の中から革新するという大望を持つ私が目指しているものにほかならない。フラットアイアンビルの前に立って、そう私は心の底から感じました。

ないがしろにされてきた住文化

「衣食足りて礼節を知る」という言葉があります。衣服と食事において満たされていれば、人間らしい礼儀や節度を守ることができるという意味です。

日本人は、時に世界一おしゃれな国民と言われることもあります。山本寛斎、三宅一生、川久保玲といった世界レベルのファッションデザイナーもいます。また、日本食は世界中で数多くのファンを獲得しています。個人的には、和食は世界一の料理の一つと言っても決して過言ではないと思います。

「衣」と「食」においては、日本は世界に誇れるような文化を持っている。それに対して、「住」はどうでしょうか。

例えば、ある程度のお金をもっていても、住んでいるのはほかの棟とまったく区別のつかないタワーマンションであったり、たんにエリアのブランドだけで選んだ高級マンションであったり、建売住宅であったりする。そんな人が少なくありません。

まして、ごく一般的な収入の人であれば、住宅を建てたり購入したりする際に重視するのは、価格と面積と間取り、それに最寄り駅と職場からの距離くらいでしょう。近年は耐震性や断熱性といったスペックを気にする人も増えましたが、これらはすべて簡単に数字に置き換えられるデータにすぎません。こうしたデータだけを確認してマンションを買ったり、ハウスメーカーに完全にお任せで家を建ててしまったりするケースがほとんどなのではないでしょうか。

とりあえず住めればいい。古くなったら引っ越すか、壊して建て替えてしまえばいい。自分らしい住居など求める必要はない──。それが多くの日本人の感覚なのです。当然、世界に発信できるような住文化が発展するはずがありません。

しかし、考えてみてください。「住」とは自分と家族の生活の拠点であり、毎日寝食をする場所であり、仕事で高揚して疲れた頭と体を休めて、生きる活力を取り戻す空間です。自分が住む場所こそが、最もハッピーな場所でなければなりません。そんな大切な場所が価格やスペックなどだけで決めた味気ない場所であっていいわけがない。それは住まいを自分の美意識や価値観に合わせるのではなく、お金の問題をはじめとする様々な諸事情に住まいを合わせているのに過ぎません。

そんなかりそめの住居で、豊かな人生が送れるでしょうか。「住」が満たされて初めて、人は「礼節」を知り、豊かな生活を実現できるはずなのです。「衣」「食」だけではなく、「住」こそが、もっともっと重視されなければならない。そう私は思うのです。

「アピアランス」という価値

「住」を必ずしも日常の生活の場所に限定しなくてもいいでしょう。例えば、オフィス用の建物であっても、商業施設であっても、あるいは学校や博物館や美術館であっても、人の活動がある以上、そこは快適な場所でなければならないし、人がハッピーになる空間でなければいけません。

私は、フラットアイアンビルの前に立って、もし自分の会社のニューヨークオフィスがこのビルの中にあったらどんなに素晴らしいだろうと思いました。このビルに毎日通って、ここで事業プランを練ったり、社員と語り合ったり、お客さまと商談をしたり──。そんな風景を思い浮かべるだけで胸が高鳴りました。

しかし、フラットアイアンビルの何にそんなに私は惹きつけられたのでしょうか。その答えにこそ、「不動産の価値」の秘密が隠されているはずです。

建築物が持つ「美」の力こそが、人を魅了し、そこに住みたい、そこで働きたいと思わせ、その物件に長い命を与える──。
つまり、不動産の価値の本質とは「美」なのです。

私がフラットアイアンビルの前に立って息を飲むほどに感動したのは、この建物の「アピアランス」、つまり佇まいの「美しさ」に心をとらわれたからです。

私はこの本で、マンション、戸建て住宅、オフィスビル、商業施設といった不動産物件にとっての価値である「美」についてわかりやすくお話ししていきたいと思います。

先ほど挙げた価格や面積、立地や性能は数字で表すことのできる絶対的なものです。一方「美」とは、相対的で観念的なものであると思われています。「不動産にとって最も重要なものは美である」という私の考えに対して予想される反論は、例えばこんなものです。

「いったい、美をどうやって定義するのか」
「美といってもいろいろな種類があるだろう」
「美が利益を生み出すのか」
「美しさと物件の耐久性には何の関係もないではないか」

その一つ一つの問いに対する明確な答えを私は持っています。その答えをていねいに説明しながら、日本の住文化、建築文化、不動産文化のビジョンを示していくことがこの本の目的です。それは当然、不動産事業の一プレーヤーである私たちのビジョンを語ることにもなるでしょう。

30年で壊されてしまう日本の住宅

はじめにでも触れたように、日本の不動産物件の「寿命」は、おおよそ30年と言われています。とくに木造住宅は、30年たつと、傷み具合などにかかわらず取り壊されてしまう場合が多い。そんな話をパリやニューヨークに住む人たちにすると、誰もが目を丸くして驚きます。少なくとも、私がその事実を告げた人たちは、100パーセントの確率で「信じられない」という言葉を口にしました。

彼らが驚く理由は明らかです。パリにおいてもニューヨークにおいても、築100年を超えた建物が数え切れないほどあって、そのような古い物件にこそ価値があるとされているからです。

実際、そのような物件の家賃は非常に高いし、購入しようと思ったら莫大な資金が必要になります。それでも多くの人が、お金さえあればそういう物件に住みたいと思っています。古くなればなるほど「時間」という価値が増すので、当然、投資対象としても極めて優良です。

私が実際に訪れて話を聞いたのはパリとニューヨークの人たちでしたが、ローマでもロンドンでもアムステルダムでもストックホルムでも、あるいはロサンゼルスやオタワでも事情は同じでしょう。古いものにこそ価値がある──。こと住居に関しては、その考え方こそが欧米のスタンダードなのです。

統計で見ても、住宅が建てられてから取り壊されるまで(これを滅失と言います)の平均年数は、アメリカが66年、イギリスが80年と、日本とは比べ物にならないほど長いことが明らかになっています。

図 表 二
短すぎる日本の住宅寿命
Average Housing Lifespan · International Comparison
取 り 壊 し ま で の 平 均 年 数 日 本 JAPAN 30 years 米 国 U.S.A. 66 years 英 国 U.K. 80
Figure II 日本の住宅は、米国の半分以下、英国の三分の一強の寿命で取り壊されている。

もちろん、ただ古ければよいわけではありません。長く愛され、使われ続けることを前提に建てられたものでなければならないし、適切なメンテナンスが行われている必要があることは言うまでもありません。また、欧米のスタンダードがそのまま日本のスタンダードである必要もないでしょう。気候風土も違うし、住まいに対する考え方も異なるからです。

しかし、せっかくお金と手間暇をかけて建てた住居がたったの30年で取り壊されてしまうというのは、どう考えてもおかしい。たんに「もったいない」というだけでなく、2000万円なり3000万円を費やして建てた建物の価値が30年でゼロになってしまうわけですから、経済的に見てもこれは大きな損失です。

ましてや環境の観点から見れば、それは完全に時代に逆行する行為とみなされても反論しようがありません。まだ使えるものを解体し、新しく木を切り倒したり、せっせと二酸化炭素を排出したりしながら製造された建材を使って、また30年もたてば取り壊される家を建てるのですから、極めて無駄が多い「反エコ的行為」であることは明らかです。

なぜ、日本ではこのような仕組みが一般化しているのでしょうか。

住宅不足から住宅飽和へ

1945年に太平洋戦争に負けてから、日本は深刻な住宅不足に陥りました。空襲によって家が焼かれてしまったばかりでなく、戦地や植民地から続々と日本人が引き揚げてきたためです。45年の時点で、世帯数に対して不足している住宅戸数は420万戸に上ったといいます。

さらに、敗戦から数年がたつとベビーブームが訪れ、日本の人口は一気に増え始めます。日本政府は新築住宅振興を政策の一つの柱とし、戸建てや集合住宅を日本中に建てることを奨励します。

しかし、当然ですが、家を建て続ければ、どこかで飽和状態になります。1968年、全国の住宅総数が世帯数を上回りました。この時点で、戦後の住宅不足は解消したということです。

ところが、新築住宅振興政策に変化はありませんでした。新築の住宅を建てることが人生の一つのゴールとされ、次々に新しい住宅が建ち続けました。すでに住居数は世帯数を上回っているわけですから、古くなって余った家は取り壊されることになります。この流れが現在まで続いているのです。

本来であれば、住宅不足が解消した時点で、新しい住宅を建てることは抑制し、それまでに建てられた住宅をメンテナンスして、質を高める方向に明確に舵を切るべきでした。事実、1975年頃に「住宅の量の確保から質の向上へ」と謳われたこともありましたが、流れは変わりませんでした。結果、余っている住宅、つまり空き家は、2013年時点で何と820万戸にも上っています。

新築住宅が増え続ける構造

新築住宅振興の流れが止まらなかった最大の理由は、新築を建て続けるモデルが、建築・不動産事業者にとっても、金融機関にとっても、国にとっても都合がよかったからです。

建築・不動産事業者にとっては、新築が減ることはすなわち新規商品の売り上げが減ることを意味するわけですから、当然ながら、新築住宅がエンドレスで建て続けられた方がいいのです。最近でこそ新設住宅着工戸数の減少を受けてリフォーム事業を積極的に展開する事業者が増えていますが、個別対応が求められるリフォームに比べて新築事業が圧倒的に効率のよいビジネスであることに変わりはありません。できることなら新築事業を主軸にしたい。これが建築・不動産事業者のホンネです。

金融機関にとって貸し倒れリスクの低い住宅ローンは、さまざまな融資の中でもとくにうまみのある商品です。「マイホーム」は家族の大事な財産であり、日々の生活の拠点ですから、多少家計が厳しくなってもローン破産にはなかなか至りません。特に新築の場合、貸出額も大きくなるし、担保となる物件の評価も購入価額がそのまま担保評価額となるケースが多く、中古住宅のローンと比べてとてもシンプルです。従って査定に関する高度な能力を必要としない。これも金融機関にとっては魅力のある要素と言えます。

国は、様々な分野の事業者を巻き込む裾野の広い新築市場が活況を続けることで税収が増えます。さらに消費税導入後は、新築住宅からは消費税と固定資産税を二重に徴収できるといううまみも生まれました。ちなみに、消費税は事業者が商品やサービスを提供する場合にかかるものなので、一般の人から中古住宅を直接購入する場合、住宅価格に消費税はかかりません。こうして、事業者、金融機関、国という三者の思惑が合致し、新築振興の構造が固定化してしまったのが、現在の不動産新築市場なのです。

日本と同じく敗戦国であったドイツもまた、戦後の住宅不足を受けて新築住宅振興を取ってきました。しかしドイツは、2000年頃に「新築から中古住宅へ」という明確な方向転換をしました。新築への補助金を完全に打ち切り、中古住宅のリノベーションに多額の補助金をつけることにしたのです。その結果、住宅総数と総世帯数がほぼ同じ水準で安定しているといいます。フローの住宅からストックの住宅型へ、ドイツは着実に生まれ変わりつつあります。

ものの「三つの寿命」

周知のとおり、不動産には法律で定められた耐用年数という考え方があります。取得価額から年々減価償却をしていき、最後は価値がゼロになるというものです。ちなみに住宅用の場合、鉄筋コンクリート(RC)が47年、重量鉄骨の建物が34年、木造住宅が22年と決められています。これはつまり、20年から50年弱で物件の価値が、少なくとも税法上はなくなってしまうことを意味します。例えば、築25年の木造住宅があったとしても、不動産としての価値は二束三文ということです。だったら、壊してしまった方がいい、という考えが出てくるのも無理がありません。

しかし、驚かれるかもしれませんが、建物全般に広く耐用年数を設定しているのは日本ぐらいのものなのです。法定耐用年数は法人の利益を算出したり、売買した場合の譲渡所得税を計算したりするには必要な概念ですが、実際にその建物が使えるかどうかを表す「使用限界」とはまったく別のものです。

例えば、早稲田大学の小松幸夫教授の研究室の調査では、実際の平均寿命を見ると構造材料による大きな差はないという結果が出ています。それなのに、RCは何年、木造は何年と耐用年数を決めて、それを過ぎたら無価値だという。あまりにもナンセンスと言わざるをえません。

ちなみにアメリカには「中古住宅」は存在しません。あるのはユーズドハウス(Used House)ではなく、「既存住宅(Existing House)」だけです。「ユーズド」は時間とともに劣化する消費財に用いる言葉で、住宅は適切な管理とリモデリングを施すことで恒久的に価値を維持できる。だから日本で言うところの中古住宅は、アメリカでは一般的に既存住宅と呼ばれているのです。

アメリカにおける住宅全体の流通量うち新築が占める割合は2割強。つまり既存住宅が全体の8割弱を占めています。これに対して日本は2割にも満たない。既存住宅の流通シェアはフランスが6割強、イギリスにいたっては何と9割弱となっているので、世界の先進国の中で日本がいかに特異な状況にあるかがわかります。

そもそも不動産物件の価値とは何でしょうか。

図 表 三
既存住宅流通シェアの国際比較
Existing-Home Share of Total Housing Transactions
既存住宅 新築 EXISTING NEW BUILD 英 国 U.K. 90% 米 国 U.S.A. 80% 仏 国 FRANCE 60% 日 本 JAPAN 18% 82%
Figure III 欧米先進国は既存住宅が市場の主役。日本だけが新築依存の構造を続けている。

私たちの会社の大切なパートナーであり、『間違いだらけの「日本」の家づくり』という著書もある建設会社社長の加藤伯欧さんは、ものの寿命には「物理的寿命」と「機能的寿命」と「心理的寿命」の3つがあると言います。

「物理的寿命」というのは、ずっと着ているうちに生地が薄くなって穴が開いてしまって着られなくなった、というように物理的な耐久性が尽きて、ものとしての形を維持できなくなってしまったという寿命です。家で言えば、柱が折れたり、建物自体が自然につぶれたりすることです。

「機能的寿命」というのは、生地がダメになったわけではないけれど、体型が変わってサイズが合わなくなってしまい着られなくなったといった、つまりものとしての形は残っているけれど、機能的な問題で使うことができなくなったという寿命です。これは家で言うと、家族が増えたり減ったりして、人数と部屋数が合わなくなったりした場合などです。

そして、デザインに飽きてしまい、もうその服を着なくなったといった、持ち主の気持ちが離れてしまうことが原因である寿命が「心理的寿命」になります。

加藤さんは、その三つの寿命のうち、ものの本当の寿命を決めているのは「心理的寿命」であると言います。住宅の場合、物理的、機能的な問題は、メンテナンス、リフォーム、リノベーションなどである程度対応できます。しかし、その家や部屋に「住みたい」と気持ちがなくなってしまったら、誰もお金をかけてリフォームやリノベーションをする気にはならないからです。

「構造的価値」を競うことに意味はない

私は、この加藤さんの考え方を、自分なりに「構造的価値」「機能的価値」「美的価値」という言葉に置き換えて考えてみたいと思います。

「構造的価値」とは、耐震性などの住宅の基本的な性能を表す価値です。「機能的価値」とは、耐熱性能、間取りや部屋数、あるいは水回りやオートロックなどの付加価値のことで、集合住宅の場合はエレベーターの有無などもここに含まれます。

一方、「美的価値」はまさしく、その住宅にいつまでも住み続けたい、手入れをして長持ちさせたい、中古でその物件に出会ったらすぐにでも買いたい、などと思わせるような価値です。「はじめに」で触れたように、私がマンハッタンのフラットアイアンビルに感じたあの価値です。

加藤さんが「心理的寿命」こそが本質であるとしているように、私もまた、この「美的価値」こそが不動産の本質的な価値であると考えているのです。

日本の建物が30年しか持たないのは、地震が多いからであるという人もいます。しかし、地震大国の日本と言えども、住宅が倒壊するほどの地震がそうたびたび起こるわけではありません。確かに2016年の熊本地震では多くの住宅が倒壊しましたが、あそこまで大規模でかつ長時間におよぶ揺れはむしろ稀で、例えば東日本大震災では、地震そのものによる住宅の被害よりも、津波や火災の被害の方が圧倒的に多かったのです。

あるいは、日本の住宅は木造だから、石造りの欧米の建物に比べて耐久性がないという人もいます。しかし、先に述べたように構造による寿命の差はさほどないことがわかっています。そもそも、アメリカの住宅の多くも木造です。にもかかわらず、100年以上にわたって使われているケースが少なくありません。

さらに言うならば、世界最古の木造建築である法隆寺が建てられたのは、1400年も前のことです。構造計算も地盤改良の技術もない時代の建築物が数多の天災、人災を乗り越えて現存している事実を、私たちは重く受けとめるべきです。

見方を変えれば、こうも言えるでしょう。日本は地震大国であり、木造が主流であるがゆえに、建築技術が発達し、少なくとも構造的性能においては、世界でもトップクラスにあると。また、こと住宅に関しては法律上も徹底したコントロールが行き渡っており、これ以上、制度的に厳しくするのはおそらく無理でしょう。つまり、「構造的価値」はすでに十分に実現されており、これ以上耐震性能や耐火性能を競い合うことに意味はないのです。

「機能的価値」に答えはない

「機能的価値」についてはどうでしょうか。

そもそも間取りや部屋数といった機能には、唯一の答えはありません。家族のライフスタイルやライフステージによって最適解は変動するからです。家族が増えれば部屋が必要になるし、子供が大きくなって自立すれば、部屋の数は少なくてすみます。そのつど、必要とされる機能は変わっていくのです。

一方、断熱性能、水回り、オートロックといった設備系の機能はどうでしょうか。住宅の設備は日進月歩で進化しています。最近では、自宅の屋根に太陽光パネルを設置したり、家庭内のエネルギー利用を一元管理して省エネ効果を最大化するHEMS(ホーム・エネルギー・マネジメント・システム)のような最新テクノロジーを導入したりする世帯も徐々に増えています。

製品と製品がネットワークでつながるIoT(もののインターネット)も住居の機能性を大きく向上させるでしょう。例えば、帰宅前にスマートフォンから指示を出してお風呂を沸かしておいたり、顔認証であらかじめ登録した人が近づくとドアが自動的に解錠されたりする生活が一般的になるのにそれほど時間はかからないでしょう。

さらに今後は、例えば家庭用ロボットなどAI(人工知能)を使った新しい仕組みや、もしかするとVR(仮想現実)の技術を使ったサービスなども自宅内で使えるようになるかもしれません。

しかし、こうした機能は後からでも機能に付加することが可能です。新しい技術や製品は次々に開発されます。それが必要なら自宅に導入していけばよいのです。住宅やオフィスの機能を充実させるためには、技術や製品の進化に応じて建物をアップデートしていくというだけのことであり、新しい機能を住宅にいわば「はめ込んでいく」だけのことです。従って、機能それ自体に不動産物件の本質的な価値があるわけではないのです。

加えて言うなら、新しい機能を「はめ込んでいく」という行為にクリエイティビティは必要ありません。費用との相談が必要なだけです。コスト以上の価値があると判断すれば追加していけばいいし、そうでないと思うならやめる。新しい機能が満載の住まいは確かに便利でしょうが、住宅としての価値に本質的な差があるとは思えません。

「美的価値」を備えた建物を壊すことはできない

日本の不動産市場において構造的価値と機能的価値が重視されているのは、そこに本質的な差が生じないからです。法律や制度の改正やテクノロジーの進化を踏まえてキャッチアップすれば構造的要件と機能的要件は満たされるので、誰がやってもそれなりの価値を生み出せる。つまり、何とも皮肉ですが、付加価値を生まないからこそ重視されているということです。繰り返しますが、そこにクリエイティビティはありません。

それに対して、「美的価値」はどうでしょうか。

美的価値とは、この家に住みたい、この建物で暮らしたい、この物件がほしいと人に心から思わせるような価値であり、できることならここに未来永劫にわたって住み続けたいと思わせるような価値です。

さらに美的価値とは、この建物自体を壊したくない、ずっと残しておきたいと強く思わせるような価値です。オーナーや、そこに住む人だけではありません。そのコミュニティに暮らす人たちや、行政の担当者にもそう思わせるような価値です。

本当に美しい絵をナイフで切り刻むことができる人がいるでしょうか。精巧につくられた美しい時計をハンマーで粉々にできる人がいるでしょうか。美しいフォルムを持った性能のいいクラシックカーをスクラップしてしまいたいと思う人がいるでしょうか。美しい花を何の躊躇もなく平気で踏みにじることができる人がいるでしょうか。

しかし、日本の住宅や建物はショベルカーとハンマーで簡単に壊されてしまう。何年もの間そこで家族が暮らしたかけがえのない時間や、多くの人が入れ代わり立ち代わり住んでその空間を愛した歴史のすべてを無にしてしまうことになるにもかかわらず、30年たった住居はあっという間にあとかたもなく壊されてしまうのです。

なぜ、そのようなことが起こるのか。その住居に美的価値がないからです。それを美しいと誰も感じないからです。その建物に本当の美しさがあれば所有者は愛着と誇りを感じ、周囲の人間は、その古くて美しい建物に愛情とお金を注ぐ所有者に敬意をもって接する。そうなれば、誰も簡単には美的価値を備えた建物を壊すことはできません。

歴史によって証明された美

私がパリとニューヨークに行き、古い住宅に住む人たちに会って、「なぜ、築百年以上もたった物件にあえて住むのか」と聞いたとき、彼、彼女らが異口同音に言っていたのは、「この建物、この部屋の美しさに惹かれたから」ということであり、「歴史があり、それゆえ物件にストーリーがあるから」ということでした。

構造的に優れた物件だから、機能性に富んだ物件だから──。そう答えた人は、一人もいませんでした。仮に、断熱性に問題があって暖房費が多少かさんでも、シャワーからの水の出が多少悪くても、エレベーターが1人しか乗れないような狭さでも、それに勝る価値があるから、パリやニューヨークの一等地にある、おそらくは目の玉が飛び出るほど高い家賃の物件にあえて住んでいるのだ、と。その価値こそが、「美しさ」なのです。

しかし、このような話をすれば、必ずこう問う人がいるでしょう。では、美的価値の「美」とは何か? 「美しさ」とは何か?──。

美とはスペックで表せるようなものではありません。何が美で何がそうでないかを明確に区分できる基準もありません。その意味において、美とは常に相対的なものです。

では、美を定義することは不可能なのか。そんなことはありません。何が美であるかを言い当てることは可能なのです。

確かに、2016年の今美しいとされているものが、100年、200年後にも同じように美しいとされるかどうかは誰にもわからないでしょう。しかし逆に、100年、200年前につくられたものが現在も美しいとしたらどうでしょうか。そこに不動産における美の最大のヒントがあるのです。

マンハッタンのフラットアイアンビルは100年以上前に建てられたものです。おそらくあれが建築された当初、誰もが「何と美しいビルだろう」と思ったことでしょう。その美しさは、100年たった現在もまったく変わっていません。

その理由は何でしょうか。やや逆説的な言い方をすれば、あのビルが最初から「古かった」からです。

歴史の積み重ねの中で証明された美こそが、不動産における美であり、心理的寿命に直結する要素である。

仮に、フラットアイアンビルが、その当時に流行った意匠などを取り入れた最先端のデザインのビルだったとしたらどうでしょうか。その流行が廃れるとともに、ビルの魅力も廃れていったに違いありません。しかし、フラットアイアンビルは、技術こそ鉄骨を使った最先端のものでしたが、意匠面においては、石材を効果的に使ったトラディショナルなスタイルでした。

ちなみに設計者のダニエル・バーナムはシカゴを拠点とする建築家で、いち早く総合都市開発を手がけたことで知られています。1909年に発表された「シカゴ・プラン」は、1871年の大火で焼き尽くされたシカゴ市を世界に誇れる都市にするべく立案されたもので、全米初の都市開発プランとされています。「公園の中の都市」と呼ばれるシカゴの街のそこここに今も彼のプランが息づいていて、彼の志と構想力の高さに驚かされます。

そのバーナムがフラットアイアンに用いたのは、ボザール様式と呼ばれる古典的な建築様式の一つです。外壁に貼られた石を見ると、重厚な装飾が施されているのがわかります。しかも下層、中層、高層部分ではそれぞれ異なるデザインの石が用いられていて、その効果によってビルを、実際の大きさよりもさらに高く、そして重厚に見せることに成功しています。

斬新さなデザインのビルを建てるのではなく(それは時に悪目立ちをするという、最悪の結果を招きます)、都市になじみ、都市の美しさを最大化する建物を生み出すことに、バーナムの意識が向いていたことは明らかでしょう。こうした伝統的な、奇をてらうことのないデザインだからこそ、100年間にわたって美を保つことができた。それがフラットアイアンビルの本質です。その美しさは今後100年たっても変わることはないはずです。

一人の天才が創り出すアートや一過性のムーブメントではなく、長い時間をかけて淘汰され、研ぎすまされてきたスタイル。クラシック、トラディショナル……。表現の仕方はいろいろありますが、歴史の積み重ねの中で証明されたそういった美こそが、不動産における美であり、心理的寿命に直結する要素である。そう私は考えています。

パリやニューヨークで見た、いまだ価値を落としていない「100年住宅」は、ただ一つの例外もなく、誰もが「クラシック」で「トラディショナル」だと感じる意匠を持った物件であり、それゆえに「ヴィンテージ」となった物件でした。

もし私が天才で、真に普遍的な美を生み出す能力があるとしたら、まったく独自の発想で、100年後も200年後も美しいと言われるような建物を建てられるかもしれません。しかし、残念ながら私にはそのような才能はありません。おそらく多くの建設・不動産関係者にも、そのような能力はないでしょう。しかし、そんな特別な能力がなくても、歴史によって証明された美なら生み出すことができるかもしれない。

老若男女の誰もが美しいと感じることができて、過去の時代に生きた人たちにも、現在に生きる人たちにも、100年後の未来に生きる人たちにもアピールする。そのようなクラシックで、トラディショナルで、タイムレスなデザインこそが、普遍的な美に通じるのであり、そのような美を備えた不動産こそが真の価値を持つのです。

多くの「引き出し」から最適な解を提示する

例えば時計を考えてみてください。正確な時刻を刻むムーブメント、衝撃や水に強い素材や構造、斬新なデザインなど、その進化はとどまるところを知りません。一方で、時刻を知り、時間を計測するという目的だけであればスマートフォン一つでこと足りるので、わざわざ時計を身につけない若者も増えています。

そんな時計の世界で、多くの愛好家たちからいつの時代も変わらずに熱い評価を得ているのがアンティーク時計です。2014年にはスイスの高級時計ブランド、パテック・フィリップが1930年代に製造した懐中時計がサザビーズのオークションにかけられ、20億円を大きく上回る額で落札されました。これは少し特殊な例ですが、時計好きの多くは、その道を極めれば極めるほど、クラシックなものに回帰していくものです。

もちろん、クラシックやトラディショナルと呼ぶべきデザインは一様ではありません。車を思い出してください。一口にクラシックカーと言っても、ベントレーとT型フォードではまったく方向性が異なります。同じスポーツカーでも、アストンマーティンとフェラーリでははなからコンセプトが違います。

また、住居であればパリのアパルトマンを彷彿とさせるようなエレガントなスタイルもあれば、アメリカ西海岸のカリフォルニア風スタイルもあります。ニューヨークのブルックリンを思わせるスタイルもあれば、内装にレンガをふんだんに使ったナチュラルヴィンテージスタイルもあります。一口にクラシック、トラディショナルといってもいろいろスタイルがあるわけです。

そのどれがよくて、どれが悪いというのではなく、周囲の環境やオーナーの嗜好やライフスタイルに合わせられるようにできるだけ多くの引き出しを備え持つことが、不動産事業者である私たちに求められていることです。施主や借主の嗜好やニーズに応えて、数多くの引き出しの中から最適の解を提示すること。そこに時を生き抜く住宅を生み出すカギがあると私は考えています。

優れた素材が「古さ」を「味わい」とする

クラシックなデザインの建物でも、当然、築年数がたてば古びていきます。その「古さ」を「味わい」としていくのが、素材です。

例えば、モルタルやサイディングの外壁であれば、時間がたつに従って、単に古びて汚くなっていくだけです。塗装し直すことでいっときはきれいになりますが、その直後からまた劣化が始まります。日本のリフォーム市場が活況を呈しているのは、経年劣化が著しい建材が多く使われた住宅が多いということの裏返しでもあるのです。これに対してレンガ、無垢材、漆喰などは、経年「劣化」ではなく経年「変化」を楽しむことができる素材です。年とともに、変化がそのまま「味」となっていくからです。

内装も同じです。薄くスライスした木材を表面にだけ貼った突き板のフローリングは、表面に傷がつくとそこから下の合板がのぞいて劣化したようにしか見えませんが、無垢のフローリングなら傷や経年による色の変化も味わいとして楽しめます。

ビニールクロスの壁紙は貼ったその日が一番きれいで、あとは日焼けによる退色や埃が日増しに気になるばかりですが、自然素材の塗り壁やタイル貼りにすれば、時間がたつにつれて奥行きのある表情を見せてくれます。

総じて言えるのは、石油化学製品の建材は年を重ねるにつれて醜くなり、良質の自然素材は同じ時間を、深みある豊かな美的価値を育む力に変えているということです。従って理想を言えば、100年前にも使われていたような伝統的な素材を使うのが望ましいでしょう。そのような素材は、場合によっては海外から輸入することが必要になりますが、それだけのコストをかけてつくることで、美的価値が保たれる住居ができるわけです。

もっとも、素材にこだわることによるコスト増はそれほどのものではありません。私のこれまでの経験では、せいぜい2割程度費用が増えるだけです。3000万円の家を建てるのならば、それが3600万円になるということ。それだけの費用で物件の質はまったく変わるのです。

最初は大きな違いに思えるかもしれませんが、何十年もの間、深い満足と愛着を持ってそこで暮らし、その結果40年たっても50年たっても美的価値が失われないとすれば、決して高い買い物ではないはずです。

「本物」だけが残っていく

物事の本質を表す要素には、「真」「善」「美」の三つがあります。真とは「正しさ」であり、善とは「良さ」であり、美とは文字通り「美しさ」です。

これを不動産物件に当てはめれば、真は法令や制度を順守して、「正しい」構造に仕上げた物件ということになるでしょう。善は「良い」機能を豊富に備えた便利な物件ということになるでしょう。そして美は、ずっと住み続けたい、絶対に壊したくないと思えるような「美しい」デザインの物件ということになります。

まじめな日本人は、これまで不動産物件において、真と善ばかりを重視してきました。正しさと良さばかりを追求してきました。しかしその結果、建てた瞬間から価値がどんどん落ちていき、30年たてば壊されてしまう物件ばかりが林立する国になってしまったのです。

何度も繰り返しますが、日本人の多くは、「新築物件こそが最良で最高の価値を持つ」と考えています。しかし、これは明らかな固定観念、それも間違った固定概念です。世界的に見れば、不動産に限らず、時間とともに価値が高まるものこそが、本当に価値あるものです。それが本当に価値の高いものに共通する真理です。時間とともに価値が減少していってしまうとすれば、それには本質的に低い価値しかなかったのであり、「ニセモノ」だったということです。

そう考えれば、「新築神話」とは一種のまやかしであり、世界的に見て特殊で異質な価値観であることがわかります。それは戦後の歴代政府やディベロッパーが意図的につくり出したゆがんだ価値観です。そもそも、空き住宅が800万個を超えるこの日本で、そのような価値観がこれからも通用していくはずがない、通用していいはずがないのです。

これから日本は、世界の国々に先駆けて超高齢化社会に入っていきます。人口はどんどん減り、市場は小さくなっていきます。私たちは今後、これまでとはまったく違った社会で生きていくことになるのです。当然、あらゆる社会の仕組みや、ものをつくったり売ったりする仕組みも変わっていくことになるでしょう。

そのような変化の中で、私はあらためて「本物とは何か」ということを多くの人が考えるようになると思っています。高いクオリティと美しさとを備え、それゆえに価値を落とすことなく、人々をハッピーにし続けるような「本物」──。

車でも時計でも洋服でも、映画でも音楽でも文学でも、料理でもお酒でもスイーツでも、「本物」をつくり、提供できるプレーヤーだけが、これからの日本では生き残っていく。そう私は信じています。そして、「本物」の不動産物件とは、「美」の実現に対してあらゆる努力を傾けてつくった物件であり、かつ、その「美」は経済的価値も生み出す、ということを。

次章では、美的価値が「経済的価値」を生み出す構造について、詳しく述べていきたいと思います。

— 第 一 章 終 —
Chapter Two

「ライフタイムバリュー」を
最大化する

「新築だからいい物件」は本当か

賃貸でも分譲でも、不動産情報に欠かせないのは「築年数」です。築年数が浅ければ家賃や価格は高く、築年数が長くなればなるほど安くなっていく。それが日本の不動産の常識です。

しかし、これは実はほぼ日本に限った話です。欧米では、不動産情報として築年数が重視されることはほとんどありません。むしろ表記されているほうが珍しいほどです。もし重視されるとすれば、その物件が非常に古く、それゆえに価値がある場合です。日本では、「新築」ということが不動産情報の中で大きく謳われますが、欧米では逆に、「築100年」ということがプレミアム情報としてアピールされるわけです。

例えば、パリの石造りのアパートの中には築200年を超える物件も珍しくはありませんが、きちんと手入れさえされていれば、時間とともに深みを増す美しさに魅了されて、購入したい人、住みたい人は後を絶たず、従って価値が上がることはあっても下がることはまずありません。

第1章でも述べたように、「新築」、もしくは新しいもの一般に対する日本人の信仰というのは非常に特殊であると私は考えています。多くの人が住宅を購入する場合、新築物件と中古物件のどちらがよいかと考え、予算が許せば新築を買う。それが多くの人のスタンスです。

しかし、「どの家を選ぶべきか」という問いに対する正しい答えは、本来、「新築か中古か」という二択の中にはないはずなのです。

たとえ新築でも、自分の好みに合わない物件はあるでしょうし、住宅として質のよくない物件も当然あるでしょう。もちろん、素晴らしい新築物件もあります。同じように、中古にもいい物件と悪い物件、自分の好みに合う物件とそうでない物件がある。結局、買い手にとっていいか悪いか、好きか嫌いかは、新築か中古かとは関係のない話なのです。

しかし、多くの人は「新築だからいい物件」と考えてしまう。これは住宅に限らず、車や洋服などでも当てはまります。中古車は絶対いや、古着は絶対に買わないという人がいる。「質」や自分の「好み」についてじっくり考えることはしない。単に「新しいからいい」というわけです。

「新しいもの神話」に捕らわれた住宅市場

住宅市場は、この「新しいもの神話」に深くとらわれた世界です。物件の価値が最も高いのは竣工した瞬間で、それ以降、価値は減っていく一方です。

例えば、家賃10万円の新築ワンルームマンションがあります。この物件が「新築」を謳えるのはいつまででしょうか。答えは、竣工から1年未満で、かつ「最初の入居者が入るまで」です。仮に、最初の入居者がひと月で出ていったとしても、すでに一度入れ替えが発生している以上、その物件は「新築」ではありません。その時点で、家賃は9万5000円とか9万円に下がります。「新築プレミアム」がなくなるからです。

戸建て住宅でも状況は変わりません。ピカピカの新築住宅にたった1日でも誰かが暮らせば、それは中古住宅となります。売却しようとすれば価格は大幅に下落し、成約率そのものもダウンするのが常識です。つまり売ろうにも売れない状況に陥るのです。

図 表 四
築年数とともに大幅にダウンする価格と成約率
Decline of Price & Transaction Rate by Building Age
0 25 50 75 100 単位 : % cliff 価格 price 成約率 closing 0 5 10 20 30+ 築 年 数 ( 年 )
Figure IV 新築プレミアムは入居後わずかな期間で剥落し、その後も坂を転げ落ちるように下がり続ける。

これは、不動産業界のいわばシステムの問題でもありますが、「新築でない物件は、劣化した物件である」という意識は、借り手や買い手の側にもあります。提供する側と購入・賃借する側の関係は「卵とニワトリ」とも言えますが、そこで形成されている「神話」が強固なのは、「新築ではない物件は劣化している」という事実がまぎれもなくあるためでもあります。

不動産事業者は、「新築の際の見栄えがよければそれでいい」という発想で住居をつくっていますから、実際に住居はすぐに古くなってしまいます。外壁は汚れ、素材は劣化し、デザインは陳腐化してしまいます。価値が下がるのも当たり前です。

金融機関もまた、新築神話にとらわれています。住居の新築、もしくは新築物件の取得に対して金融機関は十分な融資をしますが、中古物件の取得に対する融資額は極端に少なくなります。新築マンションや建売住宅の場合は購入価格が担保評価額とされることが多いのに対して、中古では両者の間に大きな開きがあり、担保評価額は築2、3年程度で、新築時と比べて3分の2くらいまで減ってしまうことも珍しくありません。

新築時の価値が最大であり、あとは価値が落ちる一方である──。この不動産業界の構造によるマイナスの影響を強く受けているのが、不動産投資の世界です。

不動産投資の罠

最近では、ごく普通の会社員がワンルームマンションなどを購入して、その賃料によって儲けを生み出す不動産投資が盛んになっています。副収入を得て、年金に頼らない老後の人生を設計する一つの手段として定着しつつある投資ジャンルですが、不動産投資に成功するのは、実は決して簡単ではありません。

例えば賃貸物件であれば、その部屋にすぐに借り手がつき、かつ入居者を継続的に確保できれば問題はありません。しかし、もし入居が途絶えてしまえば、当然儲けはゼロ。それどころか管理費や修繕積立金、固定資産税などの諸経費で、赤字がどんどん積み上がります。そうなるのを避けるために家賃を下げれば、利回りが悪くなるので投資効果は減っていきます。結果、投資を回収するまでにかかる時間は当初の想定を大きく上回り、いつまでたっても利益が出ないということになりかねません。

例えば、2000万円でワンルームマンションを取得し、10万円の家賃で貸し出せば、元手を取り戻すまでに、単純計算で17年近くかかります。しかし、物件の価値が下がり、家賃を8万円まで下げなければならなくなったら、その時間は20年以上に伸びることになります。つまり、買ってから20年以上たってようやく購入資金が回収できるということです。

月々10万円ないし8万円という額が継続的に入ってくれば、とりあえず投資は成功しているような感覚になってしまいます。実は、ここに不動産投資の大きな罠があります。購入資金が回収できた時点からいかに稼ぐかによって、その投資の成功の度合いは測られることになるわけですが、その時点ですでにその物件は築20年が経過しています。それ以降、家賃は下がっていくでしょうし、当然メンテナンスコストもかさむことになるでしょう。

そこで、これ以上持ち続けていても仕方がないから、売却してしまおうということになる。しかし、築20年の物件のワンルームに、希望する価格で買い手がつくとは限りません。仮に買い手がついても、当初の取得額を大きく下回る価格で売らざるを得ないでしょう。

元手の2000万円を20年かけて回収して、それを二束三文で売却する。これを果たして成功した投資と言えるでしょうか。

これは、当初の取得額の2000万円をキャッシュで払った、という前提の話ですが、ローンを組んでいれば、当然のことながら金利負担が重くのしかかります。最悪の場合には、売却額がローン残高を下回ることもありえない話ではありません。

マンション経営の負のスパイラル

投資の成功が難しいのは、区分所有だけではなくマンション一棟のオーナーとなった場合も同じです。もちろん、投資額のケタが変わりますから、大きなリターンが期待できる反面、リスクも区分所有に比べてさらに大きくなります。

マンションオーナーのリスクは二つ、すなわち、空室が増えることと、それぞれの部屋の賃料が下がることです。今後、日本の人口は確実に減っていきますから、人気のないエリアのマンションの空室は今後ますます増えていくはずです。空室が出れば損失になるので、そうならないように家賃を下げて入居者を呼び込もうとする。それでも入らない場合は、さらに家賃を下げる──。そんな負のスパイラルに陥ってしまったら、もはや何のための投資かわからなくなります。

図 表 五
築年数とともに空室率は上昇する
Vacancy Rate Rises with Building Age
0 10 20 30 40 空 室 率 ( % ) ~ 35% 負 の ス パ イ ラ ル downward spiral 0 10 20 30 40 築 年 数 ( 年 )
Figure V 空室を埋めようと家賃を下げ、収益が落ち、メンテも怠る。築年とともに螺旋は深まる。

さらに、物件を手放すときのリスクも、マンションオーナーにはつきまといます。空室だらけで稼働率の低い物件を積極的に買おうとする人はいません。むしろ、建物を取り壊して更地にして土地だけを売ったほうが、売却額が上がる可能性もあります。しかし、まだ入居者が一人でも二人でもいれば、すぐに取り壊すわけにはいきません。その場合は立ち退き交渉が必要になりますが、交渉は簡単には進むものではありませんし、急げば足元を見られて高い立退料を請求されるでしょう。しかもその間、月々のローン返済額をはるかに下回る家賃収入でマンションを経営していかなければならないのです。それをまともなマンション経営と呼べるでしょうか。

ちなみに、地方に行くと健全なマンション経営をはなから目指していないような物件も少なくありません。計画段階から空室率30パーセント程度を前提に話が進むのが普通だったりします。それは目的がマンション経営ではなく、相続税対策だからです。

土地のまま相続すると高額な相続税が発生しますが、そこに賃貸物件を建てれば、相続税評価額は大幅に圧縮されます。アパートや賃貸マンションなどの貸家建付地の相続税評価額は200平米以内の部分については、更地の場合の50パーセント減となるからです。さらに貸家は建物の評価額も自己使用に比べて低くなるうえ、ローンなどの借入金があればそれも財産額からマイナスされます。

だから、マンションやアパート自体で儲からなくてもいいのです。しかし、本当にそれでいいのでしょうか。狙いどおり相続税が軽減できたとしても、満室などとうてい期待できません。その結果、相続した子や孫には空室だらけの赤字物件と重いローン負担という「負の遺産」が残されることになります。だからといって売却したくても、空室だらけの物件をあえて買う人はそうはいません。仮にいても買い叩かれるのは必至で、手元に残るのは借入金だけ。子や孫が苦しませるだけの本末転倒な相続税対策が、いまも日本のあちこちで行われています。

こうした相続税対策が最悪なのは、結果として質のよくない安普請のマンションやアパートが粗製乱造されるという「二次被害」を引き起こす点です。これはもう悲劇としか言いようがありません。

「エンドユーザー視点」の不在

投資目的の物件でも、相続税対策の物件でも、問題の本質は共通しています。実際にそこに住む「エンドユーザー視点」の不在です。投資家が取得する物件はたいていの場合、不動産事業者が用意した一種の規格商品です。そのような物件は、部屋を買う人、借りる人のことを本当には考えていないケースがほとんどです。ましてや相続税対策を目的として建てられたアパートやマンションは、いわずもがなです。

そこに住む人がどういう気持ちで生活を送り、どのようなライフスタイルを大切にしようとしているのか。そのような発想は、ゼロではないにしても極めて少ない。重視されるのは、いかに早く、いかに安く建てて、竣工後はいかに早く儲けを出していくかという、事業者の都合だけです。

一般的な商品開発で、ユーザーの視点を考えないということはありえません。どのようなユーザーがどう使うかということを想定したうえで商品は開発されます。以前は「いいものをつくれば売れる」と信じていた日本のものづくり産業も、消費者のニーズはどこにあるのかを見極める顧客視点の経営に大きく舵を切っています。ところが不動産市場においては、その「いいもの」さえまともに追求されないことがしばしばあるのです。

そう考えれば、空室が出るのは当たり前ということになります。はじめから稼働率100パーセントを目指していない地方の安アパートが空室だらけになることはもとより、都市部のマンションでも、買う人のこと、借りる人のこと、住む人のことを本当に考えていないから、結局ユーザーから見向きもされなくなってしまう。

これは、物件の価値をみすみす下げているという点で、ユーザーだけでなく、不動産投資家もまったくハッピーにしない構造です。本来であれば、その物件に魅力があり、そこに住みたいという人が増えれば、空室が発生することもなく、家賃を下げる必要もない。その結果、物件の価値が保たれ、投資効率が最大化するという構造がつくられなければならないはずです。

しかし、そのような構造をつくることははたして可能なのでしょうか。

インカムゲイン+キャピタルゲイン=ライフタイムバリュー

物件のトータルな「ライフタイムバリュー」を上げることによって、それは可能になる──。それが私の答えです。

一般的なマーケティング用語では、ライフタイムバリューとは「一人の消費者が生涯を通じて払うお金」のことを意味します。例えば自動車であれば、一人の人が30歳から70歳まで10年ごとに車の買い替えに250万円を投じ、かつ車の維持費に年50万円がかかった場合、生涯にかかるお金は3250万円なので、「その車ユーザーのライフタイムバリューは3250万円」ということになります。車関連の産業は、この一人ひとりのライフタイムバリューを最大化することによって利益が最大化することになります。

私が物件の価値を表すのに用いているライフタイムバリューという言葉は、これとは少し異なります。不動産物件にも一人の人間と同じように、新築時点から始まる「ライフタイム」がある。その価値を最大化することによって、そこに住む人や投資家の幸福度を最大化できる。それが、私が考える物件のライフタイムバリューです。

不動産投資で重視されているのはインカムゲイン、つまり月々の家賃収入です。利回りで利益を上げていくという考え方ですが、すでに述べたように、これだけで初期の投資額を回収するまでには長い時間がかかるし、場合によっては元手を取り戻せないケースもありえます。

従って、不動産投資を成功させるには、最終的にその物件を売却することで得られる利益、つまりキャピタルゲインを視野に入れておかなければなりません。あるいは売却額が初期投資額を下回る場合でもその差額、すなわちキャピタルロスを小さくする必要があります。つまり、日々の「運用戦略」だけではなく、手放すときの「出口戦略」が必要であるということです。

このインカムゲインとキャピタルゲインを合わせたものが、私の考える不動産のライフタイムバリューです。他の投資などでは、インカムゲイン(株式ならば配当金、債券ならば利子など)とキャピタルゲイン(譲渡益)の両方を考えるというのはごく当たり前のことですが、不動産投資では出口戦略に当たるキャピタルゲインが想定されていないケースが実は多いのです。

ライフタイムバリューを最大化する方法

インカムゲインを安定的に確保するために必要なのは、すでに触れたように、「空室を出さないこと」と「家賃を下げないこと」です。例えば、2億円でマンション一棟を買って、5パーセントの実質利回り(管理費や固定資産税などの諸経費を勘案したもの)を安定的かつ継続的に確保することができれば、20年で元本相当の利益を得ることができることになります。

一方、キャピタルゲインを最大化する、あるいはキャピタルロスを最小化するために必要なのは、資産価値を目減りさせないことです。20年後、取得価格と同じ2億円でマンションを売却することができたとすれば、キャピタルゲイン(キャピタルロス)はゼロ。インカムゲインの2億円と売却額の2億円、計4億円が手元に残ります。これがこの物件のライフタイムバリューで、20年間で資産が倍になったことになります。

実際には税金や手数料、融資を受けた場合はローンの利息、それに物件のメンテナンス費用がかかるので、ことはそこまで単純ではありませんが、ライフタイムバリューを最大化するという基本的な考え方はこのようなものです。

それでは、どうすれば、インカムゲインをしっかり確保し、キャピタルゲインを最大化(キャピタルロスを最小化)することが可能になるのでしょうか。

物件の「美的価値」を徹底的に追求し、それによって心理的寿命を長引かせることです。それ以外の答えはありません。

図 表 六
ライフタイムバリューで考える不動産投資
Two Models for Lifetime Value · Conventional vs. LTV
— MODEL A — 従 来 モ デ ル Value & income decline together LTV declining キャピタル ロス インカムゲイン キャピタルロス LTV → 時 間 ( 経 過 年 数 ) VS — MODEL B — L T V モ デ ル Value & income compound together LTV compounding キャピタル ゲイン インカムゲイン キャピタルゲイン LTV → 時 間 ( 経 過 年 数 )
Figure VI 従来モデルでは、家賃も資産価値も時間とともに減価する。LTVモデルでは、両者がともに上昇し、時間が味方になる。

バリューを決定するのは「美」

「空室が出ない」「家賃が下がらない」ということは、一定の金額を払ってそこに住みたい人が常にいるということです。つまり、その物件をユーザーが支持しているということであり、市場がその物件の価値を認めているということです。

それでは、一定の金額を払ってそこに住みたいと人に思わせる要素とは何でしょうか。第1章で述べたように、耐震性などの「構造」において日本の物件にはもはや大きな差がつくことはほとんどありません。間取りなどの「機能性」はニーズが千差万別であり、設備面における「機能性」は日々アップデートされていくものなので、これもバリューの本質ではありません。

最も決定的な差が出るのは、「この部屋に住みたい」「この部屋でずっと暮らしたい」というエモーショナルな価値です。そのエモーションを喚起するものは、デザインであり、素材であり、コンセプトです。つまり、広い意味での「美」ということです。

美的価値が下がらない限り、エモーショナルな価値も下がりません。
その物件の美的価値が普遍的でタイムレスなものであれば、その物件は住む人のエモーションを刺激し続けることになります。

手間のかかるクラシックカーを所有する醍醐味や、時間を知るだけのためにはあまりにも高価すぎるアンティークの時計を身に付ける喜びを、感情以外に求めることはできません。そのもののもつ背景や、これまでに関わってきた多くの人の感性や熱量が、数字には置き換えられない美的価値となり、見る者の心をわしづかみにするのです。その美的価値が失われない限り、どれだけ時間が経過しようと市場価格が下がることは基本的にはありません。

不動産も本来はこれと何ら変わらないはずです。美しさに惹きつけられてその部屋を選んだ人のエモーションは、構造や機能性によってもたらされるものではありませんから、美的価値が下がらない限り、エモーショナルな価値も下がりません。

物件を売却する場合も、美的価値が保たれていれば、価格が下落することはありません。自分で住むために買う人はもちろん、投資目的の買い手であっても、「この物件はユーザーに支持される」「この物件はユーザーのエモーションを刺激する」という確信があれば、その評価に見合った対価を払ってその物件を取得するでしょう。

普遍的な「美」は決して古くならない

すでに述べたように、美とは相対的なものです。何が美しくて、何がそうでないか。確立された物差しはないし、人によって感じ方はさまざまです。

しかし、そうではない美もある。歴史の積み重ねの中で証明されてきた美です。トラディショナルでクラシックな美、過去から現代まで時代や国を問わず支持されてきた美です。それは、「確実に利益を生み出す美」と言ってもいいでしょう。

デザイナーズマンションと呼ばれる物件の一群があります。本来はその名のとおり、建築家がこだわりをもって設計し、最先端のデザインを取り入れた「おしゃれな」マンションを指しますが、定義があるわけではないので、壁がコンクリート打ちっぱなしだったり、多少個性的な設計や意匠が施されていたりすれば、最近では何でもかんでもデザイナーズマンションになってしまう風潮があります。「デザイナーズ」と謳えば、一般的な物件に比べて人気が出るので、不動産事業者は「デザイナーズ」と言いたがるのです。

しかし、そのようなデザイナーズマンションが現時点で「おしゃれ」であったとしても、50年後、100年後も同じようにおしゃれである保証はどこにもありません。現代のユーザーのエモーションを刺激するデザイナーズマンションが、100年後のユーザーのエモーションを同じように刺激している保証はどこにもありません。いや、むしろそうではない可能性のほうが高いでしょう。現代における「新しいデザイン」は、未来における「古いデザイン」にほかならないからです。新しいものは必ず古くなる。流行に乗ったものは、その流行が去れば「おしゃれ」ではなくなる。それが物事の真実です。

それに対し、流行とは無縁の美が古くなることはありません。それは初めから「古い」からであり、その古さゆえの安定感と普遍性こそが、そのような美の本質だからです。物件がそのような美的価値を備えていれば、その物件は古くなりません。つまり、経済的価値も下がることがないということです。

もちろん、住居も「もの」ですから、物理的な経年変化と無縁ではありません。しかし、そのような変化が「劣化」ではなく、「味わい」になるような素材を使ったデザインこそが、本当の意味でのトラディショナルでクラシックなデザインです。意匠と素材がセットになって初めて、タイムレスなデザインは成立するのです。

デザインと素材に徹底的にこだわると、建築費は通常の物件よりも高くなります。着工前のコンセプトメイキングに時間がかかるし、素材は場合によっては海外から取り寄せる必要もあるからです。それは、「早さ」と「安さ」を追求してきたこれまでの不動産ビジネスの対極にあるやり方と言えるでしょう。

しかし、いくばくかのコスト増によって価値の下がらない物件をつくるのと、早さと安さのみを求めて、30年後には価値がゼロになってしまう物件をつくるのと、そのどちらが賢いやり方でしょうか。そのどちらが文化的に成熟していると言えるでしょうか。答えは言うまでもないでしょう。

「ソフト」による付加価値づくりは有効か

おそらく、このように言う人もいるでしょう。不動産の価値を保つのは「美」だけではないはずだ。時代は「モノからコトへ」と移っている。建物というハードではなく、むしろソフトをこそ充実させて不動産の価値を上げる方法のほうが有効ではないのか、と。

実際、ソフト面を充実させることによってほかの物件と差別化を図ろうという取り組みは少なくありません。例えば、複数人が同居することを前提にして、小さな居室の中心にラグジュアリーなリビングをつくり、広いダイニングキッチンを用意するといったやり方です。これは最近はやりの「シェア」という新しいライフスタイルを提案する物件で、その「提案」がソフトに当たります。若者のルームシェアをテーマにしたテレビ番組などの影響もあるので、確かにこれは「刺さる提案」かもしれません。少なくとも、現時点においては。

あるいは、マンションの中にゴルフ練習場やスポーツジム、ビリヤード、カラオケなどのスポーツ・エンターテイメント施設をつくるというやり方があります。これは「住」に「運動」や「遊び」などを組み合わせて、それによって分譲価格や賃料を上げるという考え方です。そのような要素は、スパ、エステ、インターネットフリーのスペース、バー、歓談室などいくらでも考えつきます。ソフト面で物件の付加価値を上げていく方法は無限と言ってもいいかもしれません。

しかし、ソフトの最大の問題点は、流行りすたりのサイクルが非常に早いことです。ルームシェアは、今でこそ比較的新しい提案かもしれませんが、10年後にはおそらく陳腐化しているでしょう。スポーツやエンターテイメントの流行に関しても同じです。

現に、一時は新しいマンションの共有施設として注目されたシアタールームなどは、今やまったく使われていないことも珍しくありません。映画を楽しむのならやっぱり自宅でくつろぎながら観たいし、大画面がいいなら映画館に足を運ぶということでしょう。住宅設備の機能と同じように、ソフトは常にアップデートしていく必要があるのです。

また、「コト」を重視するといっても、不動産物件の場合、結局のところそれを支えるのはハード、つまり「モノ」です。当然、不断のメンテナンスが必要になります。ジムであればマシンを点検し、定期的に新しい物に交換していかなければなりませんし、大浴場は掃除やポンプなどのメンテナンスに多額のコストがかかります。

つまり、アイデアも設備もアップデートしていく必要があるということであり、「手間はかかるが、一つ一つのコトは長続きしない」というのが、ソフトによる価値づくりという方法の最大の難点なのです。

不動産におけるソフトの価値を否定するつもりはありませんが、時代の変化に応じて絶えず更新していくソフトと、ハードそのものは完全に分けて考える必要があります。ソフトによる付加価値づくりは、物件の価値を100年以上保つうえで賢明な選択しとはなりえません。

真の「エコ住宅」とは

では、例えば「エコ住宅」というコンセプトはどうでしょうか。気密性や断熱性に優れていて、熱効率がよく、太陽光パネルなどを設置することでエネルギーを家庭でつくり出すこともできて、耐震性にも優れているから長く住み続けることができる──。それが一般的なエコ住宅の謳い文句です。

しかし、どれだけ省エネ効果が高く、コストパフォーマンスがよくても、端的に言って「かっこ悪いエコ住宅」は決して長持ちはしません。住む人のエモーションという点で価値を失ってしまえば、つまり飽きられてしまえば、そこに住む人はいなくなるし、中古市場でも見向きもされなくなります。早晩、その家は取り壊されることになり、そこにまた、たくさんの建築資材を投入して新しい住居が建てられるでしょう。そのようなあり方のいったいどこが「エコ」だというのでしょうか。

そもそも環境技術は進化のスピードが速いので、最先端テクノロジーもあっという間に陳腐化します。しかも性能が数値化されるだけに、数年前のものと現在のものとではその差は歴然としていて、逆に古さが際立つ結果にもつながります。つまり、いわゆる省エネ住宅のコストパフォーマンスが優れているのは最初だけということです。

真のエコ住宅とは、普遍的な意匠と経年によって味わいを増す本物の素材を使って、その美的価値がいつまでも続き、従って決して取り壊されることのないような住宅のことをいうのです。大切にケアしながら、50年も100年も住み続けられる住宅のことをいうのです。つまり、美的価値において優れている物件こそが、本当の意味でのエコ住宅であり、最新の省エネ性能がほしいのであれば、設備だけを更新すればいいだけのことです。

繰り返しますが、日本の人口は今後継続的に減っていき、社会は成熟していきます。土地はもとより限られています。里山の保全なども今後は本気で考えなければならないでしょう。

その新しい時代において必要とされるのは、長く、大切に住み続けられる真の意味でのエコ住宅であり、それを支えるのは美的価値なのです。美とエコは両立するばかりでなく、美によってエコが実現する。それがこれからの不動産のあり方であり、欧米先進国ではごく当然なこととして実現しているのです。

家を持って貧しくなる社会からの脱却

一度建てた住宅に長く住み続ける。あるいは取得時を上回る価格で売却して、その時々の家族の事情や生活スタイルにマッチした、より価値の高い家に住み替える。そのようなスタイルが広がれば、建て替えごとに住宅ローンを組んで、一生借金を払い続けるという、考えてみれば極めてばかげた経済生活から解放されることになります。

借金から解放されるということは、それだけ可処分所得が増えることを意味します。可処分所得が増えるということは、給料が増えることと同義です。自由に使って、生活を豊かにできるお金が増えるわけですから。そうなれば、国内の消費も増え、景気にもいい影響を与えることになるでしょう。

景気対策で公共事業を増やしたり、企業に賃金アップを促したりするよりも、住宅寿命を伸ばし、人々の借金を減らし、可処分所得を増やすことの方が、よほど確かな経済効果を生む。そう私は考えています。

それだけではありません。可処分所得が増えれば、住宅の改装、インテリア、デコレーションなどにお金をかけることができるので、自分が住む家への愛着がさらに増します。住宅そのものの質が高く、さらにそこに住む人たちがその家をいわば「育てて」いく。そのような魅力的な不動産の集合体は、やがて魅力的な街となっていくでしょう。

魅力的な街が観光収入を生むということについては、のちにあらためて論じたいと思いますが、街そのものが魅力を備えることができれば、何百年という長きにわたって収益を生み出し続けることができるのです。パリのように、ローマのように、ヴェネツィアのように、ロンドンのように、アムステルダムのように。そう考えれば、不動産の革命こそが真の経済対策と言えるのではないでしょうか。

不動産を購入することで貧しくなる現在の歪んだ構造に終止符を打たなければなりません。住宅を耐久消費財から本当の意味での資産に変えて、住宅によって個人の生活も経済も、そして国も豊かになる。成熟国家である日本には、それを実現するだけの潜在力があるはずです。

不動産と住文化にイノベーションを起こす

不動産の販売価格や家賃は、おおむね相場によって決まります。相場は、エリア、駅からの距離、物件のスペックなど複合的な要因によって決定します。

私は、不動産ビジネスがその相場に左右されすぎていることが大きな問題であると常々考えてきました。相場に沿ったビジネスを行えば、相場通りの価格にしかならないし、物件の価値も相場通りに目減りしていくことになります。

「相場を重視する」ということは、「他社と同じことをやる」ということであり、「業界の慣行に従う」ということです。しかし、それでは本当に価値ある物件をつくることはできません。それに対し、これまで不動産業界で重視されてこなかった美的価値を徹底的に追求すれば、相場を超越した価値を持つ物件を世に問うていくことができます。

美的価値を追求する物件をつくることは、すなわち不動産にイノベーションを起こすことです。ほかの人、ほかの企業と同じことをやっていたのでは、イノベーションは絶対に起こりません。イノベーションを起こすのは、いつの世も「若者」「ヨソ者」「バカ者」であると言われます。

私はもはや「若者」とは言えないし、不動産業界に精通しているという意味で「ヨソ者」でもありませんが、あえて「バカ者」の立場に自分を追い込んで、周囲から「そんなことは無理だよ」「ありえないよ」「非常識だよ」と言われることに徹底的にチャレンジすることはできます。それだけの意気込みがなければ、イノベーションなどを起こせるはずはありません。

世の中にそれまで存在しなかったビジネスや製品、サービスを最初に手がけた人はみんな、「常識ある」人々に笑われました。アメリカの民間宇宙開発企業、スペースXでCEOを務めるイーロン・マスクは、近い将来、火星に人類が住めるようにする計画を掲げています。妄想癖があるのではないかとか、投資家を安心させるためにホラをふいているのではないかなどと言う人も少なくありません。

しかし、電子決済サービスのペイパルや電気自動車のテスラモーターズを立ち上げた彼のことですから、いつかきっと火星移住も実現させるのではないかと私は思っています。イノベーションが既存の技術や概念を破壊するところから始まるのは、いつの時代も変わらない事実なのです。

不動産にイノベーションを起こすということはまた、日本の住文化にイノベーションを起こすということでもあります。30年で価値がなくなってしまう住居のためのローンに追われ続け、住居を子供や孫に引き継いでいく資産にもできず、どうせいつか壊してしまうものだからと、メンテナンスやリノベーションもせず、結果、人間の人生にとっても最も大切であるはずの「住」ということをないがしろにして生きていく。そのような文化がこれからも続いていいはずはありません。

成熟した社会のベースとなるのは住文化であり、それを支えるのは新しい不動産ビジネスであると私は信じています。いま、ここから、不動産をめぐる価値観の大転換が始まります。20年後、あるいは30年後に2017年を振り返ったとき、あそこがパラダイムシフトの始まりだったと誰もが思うようになる。その確信が私にはあります。

— 第 二 章 終 —
Chapter Three

美を求める旅

パリとニューヨークで得た確信

不動産における最も重要な価値は「美」である──。私がそのような考えを抱くにようになったのは、不動産ビジネスに関わる者として、何より「かっこいい」物件を手がけたいという思いがあったからでした。また、「かっこいいい」物件を売ることによって、景気に左右されない不動産事業を確立することできるとも考えていました。物件の「かっこよさ」と経済性は、コインの表裏の関係にある。それが、私が20代の頃から掲げていた仮説でした。

日本の一般的な不動産が手掛ける物件には、正直、お世辞にも「かっこいい」とは言えないものが少なくありません。そのような物件は、景気がいい時には売れますが、景気が悪くなるととたんに売れなくなります。不動産の価格は、株と同じように景気の動向によって上がったり下がったりするものです。売れなくなれば、価格を下げなければなりません。せっかく安く仕入れることができても、売値が下がれば、当然利幅は小さくなります。そんな場面を私は何度も自分の目で見てきました。

従って、安定した不動産ビジネスを確立するには、景気がよくても悪くても価値が保たれるような物件をプロデュースしなければならないわけです。そのような物件とは、すなわち「かっこいい」物件であり、そのかっこよさは普遍的な美に裏打ちされたものでなければならない──。私は、これまで手がけた仕事を通じて、そのような信念を獲得していきました。

ここでいう「物件の価値」には、2種類の価値が含まれています。「現在の価値」と「未来の価値」です。「現在の価値」については、私たちが手掛けている物件に、相場よりもはるかに高い価格で買い手がついているという点で証明されていると言っていいでしょう。

では、「未来の価値」についてはどうでしょうか。これは、私たちが手掛けた物件が20年後にも、30年後にも価格を落としていないという事実がなければ証明されたことにはなりません。つまり、実際に未来を迎えてみなければわからないということであり、それまでは、あくまで仮説にとどまるということです。

しかし、私はその仮説を仮説以上のものにする方法が一つあると考えていました。アメリカやヨーロッパで、建てられてから20年後にも30年後にも、さらには50年後、100年後にも価値を落としていない物件をこの目で見て、その美的価値を私たちなりに咀嚼し、それを日本の地で新たなかたちで創出することです。それが達成できれば、私たちのアプローチの正しさは証明される。そう私は考えました。

2016年の春、そうして私はパリとニューヨークへの視察の旅に出たのです。この旅で私が得たものは、まさしく「私たちの仮説に誤りはない」という実感でした。

パリでは、17世紀、18世紀に建てられた邸宅が並ぶマレ地区などを歩き、地元の不動産会社の人に会い、築100年以上の物件を自分たちでリノベーションして住んでいる家族の話を聞きました。また、パリの歴史的建造物の保存などを目的に活動している団体のディレクターに会うこともできました。

ニューヨークでは、主にマンハッタンの中心街を見て歩きました。映画の撮影にもしばしば使われるアンソニア、ジョン・レノンが住んでいたダコタハウス、現在はスティーブン・スピルバーグ、以前はブルース・ウイリス、デミ・ムーア夫妻が住んでいたサンレモといった超高級物件のほか、もう少し手頃ではあるけれど、宝石のように美しい歴史ある物件も視察し、管理人やオーナーに話を聞きました。また、ブルックリンにも足を運び、築100年の物件に一人暮らしをしている若い女性にもインタビューをしました。

築100年以上の物件に住む理由とは

私がパリとニューヨークの不動産業者やそこに暮らす人々に聞いてみたかったのは、究極のところ、ただ一つのことでした。なぜ、築100年以上の物件に人々は住みたいと思うのか、あるいは、なぜあなたは築100年以上の物件に住んでいるのか──。

一週間の視察の旅で10人以上にその質問を投げかけましたが、答えはほぼ私が予想していた通りでした。

パリでの取材
Plate II パリでの取材。古い住まいに暮らす人々や、つくり手に話を聞いた。

多くの人がその物件を愛して、そこに暮らしてきたという歴史が、その物件にストーリーを与え、その物件の魅力をさらに高める。
そんな歴史やストーリーのある物件に暮らすことが、すなわち豊かな生活を送るということにほかならない──。

表現の仕方は一人ひとり異なりますが、パリでもニューヨークでも、私が話を聞いた人たちの答えは、ほぼそんな内容で共通していました。一人として「駅から近いから」とか、「断熱性に優れているから」とか、「バリアフリー設計で便利だから」と答えた人はいませんでした。つまり、機能や構造の価値、あるいはスペックの高さに、プライオリティを置いていないということです。

もちろん高機能で便利な場所にあれば、それに越したことはありません。しかし、そうした要素に美しさと引き換えにするほどの価値はなく、本当に求めているのはあくまでも美的価値であり、それがもたらす心や暮らしの質の豊かさなのです。

それを象徴するエピソードがあります。アンソニアの物件を多く扱う不動産エージェントに、案内してもらった部屋の構造のことを質問したときのことです。意外にも、不動産のプロであり、実績あるエージェントであるはずの彼は、その質問に答えられなかったのです。しかも、悪ぶれたそぶりはありません。「誰も構造のことなんて気にしないからね。ここの物件を買う人は、そういうことには関心がないのさ」と、こともなく言いのけたのです。

アンソニアでは、以前は大手商社に勤めていたという40代の日本人男性と、すでに30年間このアパートメントに住んでいるという日本人女性にも会いました。男性は、新しいマンションから、あえてこの建物に引っ越してきたそうです。「ニューヨークでは、建物の美的価値に惹かれて、あえて古い物件に越してくる日本人も増えている」と話してくれました。

海外赴任や現地での暮らしが長いとはいえ、日本人の中にも古くて美しい住まいを求める人たちがいるという事実に、私は勇気づけられました。

設備の欠点を補ってあまりある価値

高収入な若い世代の中にも、これみよがしな超高層マンションを選ぶのは「エレガントではない」と考える人が少なからずいることもわかりました。ブルックリンの築100年の物件に1人で暮らすウォール街勤務の若い女性は、こんなことを言っていました。

「水回りのトラブルはしょっちゅうだし、メンテナンスにもお金がかかるけど、設備の欠点はそんなに気にならないわ。それを補ってあまりある価値がこの建物にはあると思うから」

高層マンションからソーホー地区の古い物件に移ってきたアラブ系の30代の男性も、同意見でした。

「設備は劣るけれど、充足感は今の部屋の方が圧倒的に上だね。何より、落ち着くのがいい」

パリのマレ地区在住のティポさん夫妻は、どうしてもオスマン様式の建築物に住みたいと、築100年のアパルトマンに引っ越してきたそうです。天井が高く、板張りの床は建築時からのもので、彫刻が施された壁や天井のモールディングが美しい。そんな部屋に心から魅了されたとのことでした。主に奥さんが手掛けたという内装は、トラディショナルなデザインをベースに、モダンなスタイルのキッチンを融合させ、まさに自分たちのライフスタイルを楽しんでいるという趣でした。ごく普通の人たちの住居に対する意識や美的センスの高さを思い知らされました。

パリ・マレ地区のアパルトマン
Plate III パリ・マレ地区。築100年のオスマン様式アパルトマンに暮らすご家族を訪ねて。

特にパリに暮らす人々の中には、自分の住まいだけでなく、都市そのものの古さと美しさを愛でる気持ちが強くあるようです。建造物保存団体のディレクターの男性は、パリの街並みを「私の人生そのもの」だと話していました。

「石を基調としたパリの街並みの美しさに、私は本当に愛着を持っています。何があっても、この美しい景観を守りたい。そう思います」

パリの街を望んで
Plate IV パリの街を望んで。歴史ある景観を守り、愛する人々と。

歴史に耐えてきた普遍的な美は、物件の価値を高める──。その私の考えに誤りはないことを、私はこうしてパリとニューヨークの旅で確信したのです。

一方で、新しい発見もありました。パリやニューヨークに暮らす人の多くは、「空間の広さ」を非常に重視するということです。と言っても、どちらも世界中の人々が先を競うように住まいを求め、投資の対象とする両都市のことなので、あらゆる人が広い家に住むわけにはいきません。特にパリの中心部には、優美ではあるものの、日本の基準で見ても狭いアパートがたくさんあります。

では彼らがどこに広さを求めるのかと言えば、例えば天井の高さへのこだわりです。天井が高いと、それほど広くない部屋でもとても広く感じられて、気持ちに余裕が生まれる。そう人々が口々に語るのを私は耳にしました。

日本ではまだ天井高に対する関心はそれほど高くありません。ウェブサイトや広告に書かれているのはもっぱら「面積」で、「容積」については触れられていないのもそのせいでしょう。建築空間は三次元なのにおかしな話です。少し天井を高くしたり空間デザインを工夫して「容積」を広げれば、住まいに対する満足度は格段に高まる。これもパリとニューヨークで改め認識した点です。

パリとニューヨークの決定的な違い

一方で、パリとニューヨークには大きな違いがあることを確認することもできました。

パリの中心地は、建物に関しては大きな変化のない場所です。建て替えや改装に関する細かな決まりがあって、街並みの雰囲気が変わらないようになっているからです。

パリは、第二次大戦中に4年間ほどドイツに占領されましたが、その間も街並みが変わったわけではありません。映画にもなったのでご存知の方もいるでしょうが、「パリを壊滅せよ」というヒトラーの命令に占領軍司令官だったコルティッツ将軍が背いたことで、凱旋門もオペラ座もルーブル美術館も往事のままの姿を今にとどめています。

破壊を免れたのはそうした著名な建築物だけではありません。パッサージュ(ガラス屋根で覆われたアーケード街)やアパートメントなど、100年、200年前に建てられた建物が今なお残り、その街並み自体がまさにパリのアイデンティティになっています。1897年には「古きパリ委員会」が設立され、国と行政の強いリーダーシップのもとで歴史的建築物や町並みの保全が行われ、多くの市民も古きよきパリを愛してきました。

歴史的建築物がしっかりと保全され、今も現役でいるということは、究極のエコロジーとも言えますが、見方を変えると不動産における新たな競争がないということも意味しています。まちのど真ん中に新しい商業ビルが建って、古い建物と収益を競い合う。そんな構図はパリにはありません。

一方、ニューヨークは常に変わり続けている街です。世界中から雑多なものがどんどん流入し、新しいトレンドを生み出し続けています。建物に関しても、築100年、1部屋数十億円という物件の隣に新築のマンションが建ったりします。

例えば、2015年に誕生した89階建の超高層マンション、432パーク・アベニュー。最上階の部屋には約100億円という値がつき、あっという間に売れてしまいました。この建物が100年後も生き残っているためには、次々に生まれる新しい物件と競い、人々に選ばれ、収益を上げ続ける必要があります。アンソニアやダコタハウスが、そうしてきたように。

そのような過酷な競争が日々繰り返されているのがニューヨークです。チープで収益率が低い物件はさっさと淘汰され、同じ場所にまた新しいものが建設されます。従って、デベロッパーや不動産事業者は、おのずと最高のクオリティを目指すようになります。そのような競争の環境がニューヨークの建築文化のクオリティを高めているのです。

その収益の競争に勝った物件こそが、価値ある物件です。たまたま勝ち残るということはありえません。デザインに徹底的な工夫が施され、美しく、それゆえに人々のエモーションを刺激する。その結果としてその物件は勝ち残ることができるわけです。

美は経済的価値を生み出す。そのことがニューヨークほど明確に表れている街は、ほかにないのではないでしょうか。

本当に美しいものを生み出すことは不可能ではない

ニューヨークでのもう一つの大きな発見は、前述した「工期」に関するものでした。私はニューヨークを訪れる前まで、本当に美しく、価値あるもつくるには、時間とコストがかかる。だから簡単につくることはできない、そう漠然と思い込んでいました。時間とコストがかれば、その分だけ建設する側が負うリスクも大きくなるためです。

しかし、私が大きな感銘を受けたフラットアイアンビルは、着工から1年もかからずに完成しているのです。しかも100年前の建築技術で、です。現在の日本の建築技術をもってすれば、少なくとも技術的には、長い工期をかけずにあの規模とあの水準の建物をつくるのは決して不可能ではない。そんな確信を私は得ることができました。

私がフラットアイアンビルの工期について知ったのは、ニューヨークに行って、あのビルを見た後でした。「いったいあの美しい建物をつくるのにどれだけの手間とお金がかかっているのだろう」と思い、現地のエージェントに聞いてわかったのです。前日までパリにいた私は、10カ月程度であのビルができたという事実に愕然としました。というのも、パリのオスマン建築のアパルトマンを見れば見るほど、「途方もない労力と費用をかけて建てたこのような建物を、現代に建てるのは無理だ」というあきらめに近い感覚に捉われていたからです。

パリのアパルトマンの美しさは、かつての貴族制の政体のもとで、お金と時間に糸目をかけず、最も優れた素材と最も優れた技術とをもって初めて実現したものです。そのようなクオリティを持った建物を現代においてつくる方法があるのだろうかと、ある種の絶望感に襲われていました。

しかし、その絶望はすぐにニューヨークで晴れることとなったのです。フラットアイアンビルがその答えでした。現代においても、美しいものをビジネスとして生み出すことは可能である。あのビルはそう語っていました。

「美しさ」が競争力の源泉となる

フラットアイアンビルが建っているのは、決して広い土地ではありません。ブロードウェイと五番街に挟まれた変形地で、それもとても狭いスペースに建てられています。これもまた大きな発見の一つでした。大都会の狭小地でも、工夫とアイデア次第で美しい建物は建てられるということを証明しているのがフラットアイアンビルなのです。

ニューヨークを訪れて、私は自分の中のあらゆる理屈が粉砕されたと思いました。工期がかかる、お金がかかる、土地がない──。私の頭の中にあったそれらの理屈は、「日本で美しく価値のある建物を建てるのは無理である」という結論を導き出すための言い訳にすぎなかったのです。

マンハッタンのど真ん中に、100年以上前に建てられたビルが残っている。周辺には比較的最近になってつくられた新しい建物もある。しかし、その新しいビルと比べても、フラットアイアンビルの美しさとクオリティは段違いなのです。新しいビルが取り壊されても、フラットアイアンビルは残るでしょう。おそらく、50年後にも、100年後にも、あの場所で燦然と輝いているでしょう。

それはたんに美しいからではなく、その美しさが苛烈なマンハッタンにおける競争に勝ち抜く力となっているからです。商業ビルとして収益を上げ続けているからです。それ自体が、あのビルの価値の証明であり、不動産の美しさがもつ力の証明なのです。

その「力」を具体的に示す事実があります。2009年1月に、ローマの不動産投資会社であるソルジェンテグループが、フラットアイアンビルの50パーセント以上の面積を購入しました。投資額は明らかにされていませんが、ソルジェンテは、現在のテナントの契約が切れるのを待って、あのビルを高級ホテルにする計画を立てています。オフィスや住居としての利用よりも、ホテルにすることによってフラットアイアンビルの価値は最大化する。そう考えたのでしょう。

築100年のビルに途方もない資金を投じて、それを新たな業態にコンバージョンしようとする事業者がいる。日本で考えられることでしょうか。これこそがフラットアイアンビルの力ということです。

私はニューヨークに行って、まったく別次元のレベルを見せつけられたように感じました。自分の中で至高だと思っていた水準が一気に引き上げられたように思いました。今、日本で最先端と言われている建築の水準は、決して世界的に見て最高のものではないということを改めて強く思い知らされました。

私はニューヨークに行って、自分たちがやらなければならないことを突きつけられたと思っています。それは、自分たちが持てる限りのセンスとロジックと思慮と技術とをもって、現代の日本において本当に美しい不動産をつくるためのソリューションを生み出すことです。そのソリューションは必ずあるはずです。

中世の町が体現する「生活美」

話は前後しますが、パリを訪れたとき、郊外にも足を延ばしました。パリから北へ30キロほど行ったシャンティイと、そこからさらに40キロほど離れたサンリスという小さな町です。

シャンティイは、パリ近郊の観光地として海外からの旅行者にも人気の場所です。2016年に凱旋門賞が開催された競馬場や、湖に建つシャンティイ城が有名です。ただ、町の佇まいはあくまでものどかで、緑豊かな田園風景が広がります。

シャンティイ城
Plate V パリ近郊シャンティイ。湖畔に建つシャンティイ城。

一方のサンリスは、中世の美しい町並みが残ることで知られています。12世紀から13世紀にかけて建設されたノートルダム大聖堂が中心にそびえ、その周りにやはり数百年前から建つ味わい深い家々が並ぶたいへん美しい町で、どの風景を切り取っても一枚の絵となりそうな情緒に溢れています。聖堂の前の広場でタクシーを降りて、石畳の道に足を踏み下ろした瞬間に、私は非常に深い感動に捉われました。建物と空間と風景、そのすべてが完全に調和しているように感じられたからです。

サンリスで私が感じたのは「生活美」ということでした。日常生活に根ざす、暮らしとともにある美意識や審美眼です。その町は特別な観光地というわけではなく、特筆すべき産業があるわけでもありません。ただ中世から残る町に人々が生活しているだけです。その町が、なぜこれほどまでに美しいのか。

おそらく、人々の生活と建物や街並みが完全に一体となっていて、そこで決して派手でもなく裕福でもないけれど、非常に豊かな暮らしが営まれている。それがまさしく「生活美」として表現されているのだと思いました。

建物に美しさを求め、町並みに美しさを求めることは、すなわち生活に美しさを求めることにほかなりません。それを一切気負わず、ごく普通の営みとして実現している。それがシャンティイやサンリスの人々なのだと思います。経済的な水準では、おそらく日本の平均を下回っているに違いありませんが、生活の本当の豊かさという点では日本人を大きく上回っているように思います。

私はフランスの地で、日本で調査のために訪れた地方都市のありようを思い出していました。国道沿いに大きなショッピングモールが建ち、地元の人でにぎわう以外はどこも閑散としています。地価が安くて土地が余っている分、都会よりはいくぶん立派な住宅も時おり見られますが、基本的には「安く、早く」建築された木造住宅やアパートが並んでいます。何年も人が住まず、荒れ放題のまま打ち捨てられた空き家も目立ち、その姿は地方都市の衰退そのものを象徴しているようです。

地元の人に話を聞くと、若者はもちろん働き盛りの世代も「ここには何もない」と口を揃えて、地元への失望を隠そうとしない。「不本意だけれど、何らかの事情で仕方がないからここに住んでいる」と、彼らの顔には書いてあります。どんなに国が旗を振っても、そこに住む人が自分たちの街を愛せないなら、地方創世など実現するわけがありません。

シャンティイにしてもサンリスにしても、決してパリの真似をするのではなく、自分たちの町の歴史や文化に誇りを持っていることが一見してわかりました。それは東京の後追いでアイデンティティを失った日本の地方都市とは実に対照的な、町と人のありようでした。

地価の高い都心に住むことや、人もうらやむ高層マンションに住むことばかりが幸せではなく、田舎には田舎の、地に足のついた豊かな暮らしがある。シャンティイとサンリスという郊外の町にもまた、私たちが目指すべき住文化の大きなヒントがあるように感じました。マンハッタンのフラットアイアンビルとは違った意味で、私に大きなインスピレーションを与えてくれたのです。

パリとニューヨークの旅で見えてきた課題

すでに述べたように、私はパリとニューヨークで10人以上の人たちと会いました。その人たちに日本の不動産事情を理解してもらうために、「日本の建物は30年ほどで取り壊されてしまう。たとえ取り壊されなくても、不動産としての価値はほとんどなくなってしまう」という話をしました。それに対してほとんどの人は、「あなたが言っていることの意味がわからない。なぜ、30年で壊さなければならないのか」と答えました。

多少日本のことを知っている人は「日本は地震が多いから、壊れてしまうのだろう」と言いました。私はそれに対して、こう答えました。

「日本は確かに地震が多いが、地震で家が倒壊するというケースは決して多くはない。あの東日本大震災でも、揺れが原因で全壊した家は、全体の10パーセントにも満たなかった。津波による被害がほとんどだった。建物が壊されるのは、その建物が"壊されてもいい建物"だから、つまり商業的価値や不動産的価値がなくなるからだ。ではなぜ、価値がなくなるのか。その建物に住みたいと考える人、その建物を利用したいと考える人がいなくなるからだ。なぜ、いなくなるのか。その建物自体に魅力がないからだ──」

この話には、すべての人が納得してくれました。「建物が30年で壊される」という事実自体は理解できないが、背景にそのような事情があるのなら、なるほど、取り壊されるのも無理はないかもしれない。そんな反応です。

もう一つ、日本では建物そのものよりも土地の方に価値があるという事実にも、多くの人が驚いていました。「どうして、土地に価値があるんだ? そこに建物が建ってなければ、土地自体には何の意味もないだろう」とみんなが口々に言いました。なるほど、これが欧米では普通の感覚で、土地にほとんど信仰に近い感情のある日本人の方が特殊であるということがよくわかりました。

日本のバブル経済は、土地の価格の高騰によってもたらされたものです。地価が下がったことでバブルも崩壊しました。あれは、まさしく日本の特殊な事情だったのだと、私は今さらながらに納得したのです。

パリで見たオスマン様式のアパルトマン、サンリスの素晴らしい街並み、マンハッタンで見たフラットアイアンビル、私に貴重な示唆を与えてくれた人たち──。パリとニューヨークの旅は、私に非常に多くのことを教えてくれました。

しかし、一方で新しい課題も見えてきました。

パリのアパルトマンは、パリ固有の歴史と文化から生まれたものであり、ニューヨークの美しいビルもまた、アメリカという国とあの街の独自の文化の中から生み出されたものです。

では、あの水準の建物を日本で生み出すにはどうすればいいのか。日本固有の歴史と文化を反映し、素晴らしい美を体現していて、かつ50年後にも100年後にも価値が下がらない建物とはどのようなものか──。

ジョン・F・ケネディ国際空港から東京に向かう飛行機のシートにもたれ、次第に小さくなっていくニューヨークの景色を見ながら、私はその問いを何度も何度も反芻していました。

— 第 三 章 終 —
Chapter Four

不動産にイノベーションを
起こす

日本ならではの「美」を追求する

パリとニューヨークで「美しさ」こそが不動産の価値を決定づけるという確信を得た私でしたが、同時に新しい課題が突きつけられたと感じました。私たちが暮らす日本の地で、日本ならではのアイデンティを生かし、かつ価値が100年、200年にわたって保たれる物件をつくるにはどうすればいいかという課題です。

例えばマドンナも入居を断られたという逸話で有名なマンハッタンのサンレモは、私が理想とするアパートメントの一つです。セントラルパークを見下ろすツインタワーが印象的な造形は、建築から90年以上たった今も、多くの著名人や資産家を魅了してやみません。

しかし、あれと同じものを日本に建てても仕方がありません。不動産にとって最も重要な要素が美であるとするならば、それをこの日本でどう追究していくか。それを考えなければ、すべては欧米の猿真似、イミテーションになってしまいます。

私たちがパリに行って、まさしくパリならではのアパルトマンを見て感動する。ニューヨークに行って、これこそがニューヨークという佇まいのビルを見て感動する。それと同じように、世界中の人が日本に来て、なるほどこれが日本ならではの建物だと感動するような不動産をつくらなければなりません。日本的美、日本の魅力、日本のアイデンティティが表現されなければなりません。

では、その表現の形とはどういうものか。

東京の目黒区に東京都庭園美術館という建物があります。1933年に建てられた朝香宮邸を美術館にしたものです。あの建物の中を歩くと、西洋文化が怒涛のように押し寄せていた当時の日本にあって、その頃の建築家らが必死に日本の美と西洋の美との融合を模索していたことが感じられます。

当時はアールデコの全盛期で、建築を担当したのは宮内庁の技師をしていた権藤要吉ですが、部屋の設計や内装はフランス人芸術家のアンリ・ラパンに依頼をして、アールデコのエッセンスを積極的に取り入れています。しかし、アールデコといっても、ニューヨークのエンパイアステートビルやクライスラービルといったアールデコの代表的な建築物とは明らかに異なったニュアンスがあることが建物中を歩くとわかります。それは例えば、色の使い方や造形のディテールに現れていて、伊勢神宮などの日本の伝統建築に通じるものがあると感じられるのです。

独自の「様式」をいかに生み出すか

あの建物に、日本的美を追求する一つのヒントがあると私は考えています。もちろん、朝香宮邸をそのまま再現すればいいということではありません。あの建物を成立させた方法論を参考にすべきであるということです。

朝香宮邸、あるいは小笠原伯爵邸といった建物は、当時としては非常に優秀なプロフェッショナル集団によってつくられています。集団の中には、建築家がいて、デザイナーがいて、職人がいました。その一流のプロたちの試行錯誤によって、尋常ではないほどの精緻さが生まれ、独自の美が生まれたのです。

つまり、あれらの建物は「チームプレイ」があって初めて生まれたということです。一人の天才の力によってではなく、一流のプロの集団の試行錯誤によってそれまでになかった建物をつくる。その方法論をもってすれば、現代の日本において新しい日本的美をつくり出すことは可能なのではないか。そう私は考えています。

朝香宮邸から非常に強く感じられるのは、「様式への意思」のようなものです。日本ならではの様式を生み出そうという決意と工夫があの建物には満ちています。その「意思」もまた、大いにお手本としなければならないでしょう。その意思の先に、日本ならではの新しい様式があるのではないかと私は思うのです。

美しいと評価され続ける建物には、必ず何かしらの様式があります。
逆に、様式を持たない建物が長く残ることはありません。

美しい音楽の旋律と同じように、人間がつくり出すあらゆるものには、老若男女、古今東西の人々が美しいと感じる「黄金比」があると私は考えています。様式とは、その黄金比を具象化したものにほかなりません。

しかし、様式を新たに生み出すというのは、非常に難しい課題です。日本の寺社仏閣にははっきりとした日本的様式がありますが、あれを現代の日本の都市の新しい建築様式とするのは難しいでしょう。例えば、高さ100メートルの高層マンションを建てるという現代的ニーズがあった場合、それを神社仏閣のスタイルでつくるわけにはいきません。現代のニーズ、さらには未来に求められるであろうニーズを踏まえて、いかに独自の様式を実現していくか。私たちはそれを考えていかなければなりません。

建築の様式を構成する要素の一つは、素材です。国産の木、土、石、紙。そういったものですべてをつくることはできないとしても、建物のシンボリックな部分にそのような日本独自の素材を使っていくのは一つの方法でしょう。

アメリカ人建築家フランク・ロイド・ライトは旧帝国ホテルを設計するにあたり、栃木県宇都宮市で採れる大谷石を用いました。やわらかで加工しやすく、「みそ」と呼ばれる独特の穴が時間の経過とともに丸みを帯び、何ともいえない表情を見せる。それは、その土地の文化や風土に根ざした有機的な建築を提唱したライトが、是が非でも採り入れたかった日本の素材だったと言われています。

若き日にシカゴ万博で平等院鳳凰堂をモデルにした日本館に魅了されたライトは、来日して見た日本の町並みに失望したそうです。高度に洗練された伝統の建築様式を無視して、西洋の借り物のような建物ばかりが立ち並んでいたからです。

言うまでもなくライトの旧帝国ホテルは、伝統的な建築様式をそのままなぞったものではありません。しかし、日本の文化と様式に敬意をはらい、日本ならではの素材を用いて建てられたからこそ、今も名建築としての名声をほしいままにしているのです。

もう一つ、設計のもととなるインスピレーションがいかに日本的なものかということも重要なポイントとなるでしょう。自動車メーカー・クライスラーの本社として立てられたニューヨークのクライスラービルの頂上部分は、一般的には自動車のラジエーターキャップを模したデザインとされていますが、私には宝石がデザインのインスピレーションのもととなったのではないかと感じられます。

インスピレーションの源泉に何があるかによって、生まれるものは異なります。そのインスピレーションを日本的なものから生み出していくことが必要とされているのではないでしょうか。

「わびさび」と「いびつさ」

建築のインスピレーションの源泉となる日本的感性とは、どのようなものでしょうか。

例えば、「わび」という言葉があり、「さび」という言葉があります。「わび」とは、「お金がなくて侘しい」という場合の「侘び」であり、何かが足りないけれども、その不足感こそが実は美しいとする日本独自の伝統的感覚です。この感覚を海外の人たちに理解してもらうのは簡単ではないでしょう。

一方の「さび」とは、「寂しい」とか「寂れる」という現代語にも含まれる「寂び」であり、また「錆」に通じる言葉であるとも言われます。これも「わび」と同じように、寂しくなるくらいの足りなさ、あるいはものが枯れ衰えていく中に現れる美を意味しています。ニューヨーク生まれの日本文学研究家であり、後に日本に帰化したドナルド・キーン氏は、「控えめな表現が生み出す優雅さを愛する日本人の心」とこの言葉の本質を表現しています。

その表現は『日本人の美意識』(中公文庫)という本の中の一節ですが、同じ本の中でキーン氏は、日本人には伝統的な「いびつさ」や「不規則性」を愛する側面があると指摘しています。日本人は中国式の様式を取り入れる場合でも、定められた仮借ない均斉を居心地が悪いと感じ、しばらくすると、いくつかの建物を中心軸の向こう側に移すことによって、その単調さを破ったといいます。

そのようなスタイルは、例えば、高野山の真言宗本山金剛峯寺に見られるそうです。中国風の様式が取り入れられてはいるが、建物をばらばらの軸線上に建てることで、独自のいびつさを生み出している。それが金剛峯寺の特徴であり、日本的建築の特徴であるとキーン氏は言います。

「いびつさ」や「不規則性」は、自由な感性によって生み出されるものだと私は思います。輸入したものを教科書通りに再現するのではなく、自由でのびのびした感覚でそれをアレンジする。その結果が、一種の「いびつさ」や「不規則性」として現れる。それが日本的感性の一つの特徴なのだと思います。

庭園設計にも、研ぎ澄まされた日本的感性を見ることができます。禅宗のお寺を中心に用いられる枯山水は、その一つの代表です。白砂の上に大きさも形も異なる自然石を配置し、河のせせらぎや大海、山や雲海を表現する作庭方は、世界に類を見ない日本独自の作庭方です。西洋の庭がシンメトリーを基本として、秩序正しく幾何学的な要素を組み込んでいるのとは、あらゆる面で対照的です。

こういった日本的感性はすべて、今日における日本的様式の建築物を生み出すインスピレーションの基礎となるはずです。

「いき」という感覚の本質

もう一つ、「いき」という、これも海外の人たちに説明するのが大変に難しい言葉があります。この言葉を『「いき」の構造』(岩波文庫)という有名な著書で考察したのが、昭和初期に活躍した哲学者の九鬼周造でした。

現代では、「いき」には「粋」という漢字が当てられていますが、語源として考えられるのは「生」「息」「行」「意気」などであると彼は言います。生命力と、それを支える呼吸と、そこから生まれる行動と精神──。そのような多重の意味が「いき」という言葉には織り込まれているというのです。

彼の定義によれば、「いき」とは「色っぽい」ことであり、「垢抜けしている」ことであり、「張りがある」ことです。エロスがあって、洗練されていて、力強い。そう言い換えてもいいかもしれません。これらの要素は、私が考える日本的様式のイメージにかなり合致します。

九鬼周造は、「建築上の『いき』は茶屋建築に求めてゆかねばならぬ」と言っています。二階に天井の高い客間があり、張り出しの縁側があり、欄干が設けられ、焦げ茶色の味わい深い外観の建物が並ぶ。今でも金沢などに行くと、そのような歴史ある茶屋街が残っています。あのような建物が「いきな建築」の一典型であると彼は言います。

見逃してならないのは、そのような「いきな建築」が、九鬼周造が生きた時代にも、また私たちが生きる現代にも、取り壊されることなく確かに残り、かつ観光資源となって収益を生み出し続けているという点です。つまり「いきな様式」とは、継続的な経済的価値を生み出しうる様式でもあるということです。

「いき」という感覚もまた、日本的様式を新たに生み出す一つの源泉となるはずです。

「俗流モダニズム」はなぜ生まれてしまったのか

ところで、現代の日本の建築には様式はないのでしょうか。意識された明確な様式はないにしても、共通する傾向、潮流のようなものはあります。それはいわば「俗流モダニズム」です。

建築におけるモダニズムの金字塔と言われているのは、ル・コルビジェのサヴォア邸です。一階部分が柱だけのいわゆるピロティ形式で、水平窓があって屋上庭園がついている非常に有名な建物です。

あの建物の特徴は何より自由で美しいフォルムにありますが、装飾性を徹底して排しているのも大きな特徴になっています。フラットな真っ白い壁と白い柱と直線的なサッシが、あの建物の美しさを際立たせています。

しかし、あの建物が成立しているのは、周囲に広大な空間があるからです。大きなキャンバスにフリーハンドで好きな形を描き、フォルムで黄金律を表現した。そんなふうにして生まれた建物であると私は思います。

もし、あれがモダニズムの頂点にある建築物であるとすれば、モダニズムを基調とした街は、ものすごく広大なエリアのあちこちに自由なフォルムの建物が点在するような街になるでしょう。それはおそらくアート作品が並んでいるような風情の街で、それ自体を想像するのは非常に楽しいことです。

では、それを国土が狭い日本の、しかも都市部で実現できるかと言えば、とうてい不可能です。そこで日本の建設事業者は、モダニズムを取り入る際、「フォルム」を捨て、「非装飾性」という側面だけを残したわけです。それによって、「モダニズム=シンプル」という解釈が日本の不動産業界に定着することになりました。本質を見誤ったのです。

皮肉にもその解釈は、容積を重視し、狭い空間にできるだけたくさんの住宅を安価で建てたいという業界のニーズに合致しました。装飾性は必要ないから、コストも時間も抑えることができます。シンプルなデザインでいいから、クリエイティブな工夫をしなくてもすみます。結果、日本の現代建築は、装飾やデザインのコンセプトをもたない単なる「箱」になりました。容積を最大化し、コストを削減するという目的で採用されたデザインが、美しさを生むわけがありません。そして日本の街並みは、何の個性もない箱の連なりになったのです。

建物の外観には何の個性もないから、差別化をするには、機能性や構造の強さを訴えなければなりません。しかし、すでに述べているとおり、機能や建物の構造自体には人のエモーションを捉える美はありません。だから、10年、20年とたつうちに誰にも見向きもされなくなり、価格が下がり、取り壊すしかなくなる。それが、日本の建築の「俗流モダニズム」がもたらした結果です。

ヨーロッパの長屋は「箱」ではない

もちろん、都市部に建物が密集しているのは日本だけではありません。人口密度が高いことで知られるオランダやベルギーの都市には、レンブラントなどの画家が暮らしていた時代から、狭い空間に長屋を隙間なく建てる街並みが続いていました。

オランダでは国土が狭すぎて、間口の広さによって納税額が異なったくらいです。しかし、その狭い空間に建てられた家々には、装飾があり、意匠があり、独自の美がありました。今もあります。決して、ただの箱ではない。

しかも、空間を縦に上手に使うことで、開放感のある居住スペースを実現しています。国土の4分の1が海抜ゼロメートル以下というオランダでは今も国民の8割が都市部に集中し、決して広いとはいえない住宅で暮らしていますが、市街地で数多く見られるメゾネットハウスでさえ、天井高3メートルに迫る家がほとんどです。男性は180センチメートル、女性でも170センチメートルを超す世界一の平均身長を誇るオランダ人にとって、天井の高さは心地よい生活に欠かすことのできない要素なのでしょう。

国土の狭さや厳しい地理的条件を言い訳にせず、豊かな住環境と美しい街並みを創造したオランダに、日本は謙虚に学ばなければなりません。

現代のパリも同じです。パリのアパルトマンも、多くは一種の長屋です。一棟一棟が分かれているようで実はつながっていたりします。狭い都市の空間の中で人をたくさん住まわせようと思えば、そうならざるを得ないわけです。

でも、やはりそれぞれの住居のデザインは工夫されています。美を求めようとする感覚が現れています。モダニズムを曲解し、装飾性を排除した箱を並べている日本の街並みとはまったく異なります。

箱のような住居の利点は、早く、安く、たくさん建てられることです。ディベロッパーから見れば、俗流モダニズム建築はコストがかからず、販売数を増やして収益を上げるにはもってこいなのです。だから日本は、これほどまでに味わいのない建物が林立する国になってしまったのです。

装飾はエモーションに直結する

「装飾」というと、いろいろな要素でごてごてと飾りつけた様子を思い浮かべるかもしれません。しかし、単に「盛る」だけが装飾ではありません。最低限の工夫で最大限の美的効果を上げること。それもまた装飾です。

例えば、本書でもたびたび例にひいている世界最高峰の高級腕時計メーカー、パテック・フィリップの代表的なモデルである「Ref・96」(通称「クンロク」)は、装飾性を最小限に抑えたシンプルなデザインで知られています。しかし、そのフォルム、針、文字盤などには、装飾に関する明確な意思が感じられます。

本体のカッティング、数字の書体、スモールセコンドの配置と大小のバランス、本体とベルトをつなぐラグの立体感──。黄金律に基づいた調和と言っていい美しさがクンロクにはあります。余計なものを徹底的に削ぎ落としたデザインですが、ここに装飾がないわけでは決してない。いわば「引き算」の装飾があるのです。

装飾性をなくすことによって箱のようになってしまったマンションと、装飾を最小限にとどめることで究極の洗練を表現しているクンロクとでは、その本質に雲泥の差があるのは明らかです。

日本人は古代から装飾を大切にしてきました。縄文時代の壺に施された装飾の多くは、機能性とは無関係なものです。事情はどの国のどの文化でも同じでしょう。パルテノン神殿にあの装飾がなかったら、遺跡としての価値は大きく減じていたに違いありません。

装飾は、人間の美意識、エモーションをダイレクトに刺激します。装飾は、住文化における美を生み出す重要な要素であり、装飾について徹底的に考えることは、そこに住む人のエモーションを豊かにするために欠かせない作業なのです。

変わる要素と変わらない要素

私は、日本の不動産の新しい様式を考察するにあたって会社の仲間たちと一緒に、思いつくままにキーワードを挙げて、そこから本当に重要だと思える概念を選ぶ作業を続けてきました。残ったのは、次のような言葉です。

「シンプル」「都会的」「ヴィンテージ」「モダン」「洗練」「タイムレス」「アート」「カジュアル」「フォーマル」「男性的」「女性的」「ノスタルジック」「フレキシブル」「エモーショナル」「開放的」──。

「カジュアル」と「フォーマル」、「男性的」と「女性的」のように対立する概念が含まれているのは、様式には幅がなくてはならないと考えるからです。様式というからには、確固たる方向性や揺るぎのないコンセプトがなければなりませんが、その方向性やコンセプトが完全に固定的なものであってもいけません。その物件が建つ場所、物件の規模、施主のニーズ、コストなどによってテイストをある程度変えることのできる柔軟性がなければなりません。つまり、そのつどの個別のプランニングは不可欠だということです。

様式の中にはさまざまな要素があります。そのうちのどの要素を一番目に重視し、どの要素を二番目に重視するかは、状況や条件などによって異なります。プライオリティの判断にもまたクリエイティビティが求められることになります。

重要なのは、変化する要素が何で、変わらない要素が何かを明確にすることです。条件がどれだけ変わっても、決して譲れない要素は何か。様式について考える場合は、それをはっきりさせておかなければなりません。

私たちが考えるその不変の要素は、「洗練」「エモーショナル」「タイムレス」の3つです。

「洗練」「エモーショナル」「タイムレス」

旧朝香宮邸の魅力は、アールデコのスタイルを、当時最先端の感覚をもった日本人たちが自分たちなりに消化して、それを一流のクラフトマンシップによって形にしている点にあります。結果、海外の直接的な模倣ではない独自の建造物となった。それが、私が考える「洗練」のイメージです。つまり、徹底的に考え抜き、何が必要で、何が必要ないのか、何が最良なのかを見極めることが洗練につながるということです。この洗練の感覚は、先に述べた「いき」にも通じるでしょう。

「エモーショナル」については、これまでも何度も述べてきました。エモーショナルとは、「人間の感覚を刺激し、感動を引き起こす」ということですが、「感覚」にしても「感動」にしても個人に紐づいたものなので、エモーションとはどうしても個人的なものだと思われがちです。

しかし私は、本当にエモーショナルなものとは、誰もが「ああ、わかる」と思える普遍性を持ったものであると考えています。人間の潜在意識の中に共通するある感覚があって、普段はそれに気がつかなくても、何かに接することによってその感覚が呼び覚まされて、感動したり、ワクワクしたり、涙を流したりする。その「何か」がエモーショナルなものなのだと思います。

例えば、黄金比です。古代ギリシャで人体の彫刻に取り入れられて以来、最も美しく安定感のあるバランスとしてさまざまな場面で用いられてきた1対1.6の黄金比は、そんな背景や理屈を知らなくても、「美しい」と感じさせるものです。時代や民族を超えて、もはやDNAに刷り込まれています。

黄金比をはじめとする人間に共通するエモーションは、歴史的に培われてきたものです。例えば、初めて見たものなのに得も言われぬ懐かしさを感じることがあります。それを私たちはノスタルジーと呼びますが、そのノスタルジーには誰にでも共通する傾向があるように思います。人間の心の奥底にあるそのノスタルジーを引き起こすことができるかどうか。それがエモーショナルな建築なのかどうかを左右する重要な要素となります。

初めて見たものなのにノスタルジーを感じる。それがもう一つの要素「タイムレス」につながります。新しくつくられたものなのに、それに懐かしさを感じるということは、それはある意味で「はじめから古い」ということであり、またそれゆえに、「時間がたつても古くならない」ということでもあります。

一方でタイムレスという概念には「常に新しい」という意味合いも含まれます。その新しさが人のエモーションを刺激することも当然あります。

はじめから古く、かつ常に新しい──。
「洗練」「エモーショナル」「タイムレス」という3つの要素が実現できていれば、それが可能になる。

パリやニューヨークで私が見た100年以上前に建てられた建築物の多くは、新築時にも十分に素晴らしかったはずだし、現在でも本当にかっこよく感じられる、そんな建物でした。そのような不動産を日本でつくっていくことは、決して不可能ではない。そう私は信じています。

「時間」と「空間」をアレンジする

私たちにできることは、ある意味で「時間」と「空間」をアレンジしていくことです。ある特定の時代にあった様式があって、ある場所で生まれた様式がある。それらの様式の中から、洗練されていてエモーショナルでタイムレスな要素を見極め、それを私たちの奥深くにある日本的感覚で組み合わせていく。そこに新しい、日本的アイデンティティをもった様式が生まれるのではないかと私は思うのです。

服飾の領域で見ると、シャネルというブランドは、まさに時間と空間をアレンジしたスタイルを持っているように感じられます。ココ・シャネルは女性のファッションに革命を起こしたと言われますが、それは女性の洋服から過度な装飾性を大胆に削ぎ取ったからです。

シャネルのスタイルを一言で言えばアールデコということになりますが、しかし、シャネルのスーツを見ると、形自体はアールデコでも、そこに絶妙なノスタルジーがあったりします。また、デザインによっては非常に新しい感じもします。つまり、基調となる様式を持ちながら、そこに時間や空間を超えたさまざまな要素が織り込まれているということです。

建築の領域に置いても、これまでの歴史の中でさまざまな様式が生み出されてきました。西洋では、ギリシャ、ビザンチン、ペルシア、ロマネスク、ゴシック、ルネサンス、バロック、オスマン、アールヌーボー、アールデコ、モダニズム、ポストモダニズム──。日本においては、法隆寺や薬師寺のような古代の寺院建築に始まり、鎌倉時代の中世建築、室町以降の城郭、茶室、書院造、数寄屋造、武家屋敷、町屋建築、明治に入ってからの西洋風建築──。それら過去の様式から「洗練」「エモーショナル」「タイムレス」という視点で優れた要素を抽出しながら組み合わせていく中で、新しい日本独自の様式が生まれると私は考えています。

優れた工芸品としての不動産

私は決して、アート作品を生み出そうとしているわけではありません。アートとは、私の解釈では、その時代の思想や空気を鋭敏に捉えて表現したものです。いわばエッジの効いた問題提起がアートであって、それに接した人に新しい感覚やものの見方を提供する役割がアートにはあると思います。

そこに結果的に普遍性が生まれる場合もあるし、そうではない場合もあります。そのアートに強力な普遍性があれば、それは人類の資産としての残ることになるでしょう。しかし、そうはならない可能性も高い。だからアートとは、一種の賭けなのです。

私はそのような賭けをするつもりはありません。私がやりたいことは、また日本の不動産業界に求められていることは、100年後もその価値が持続すると確かに思える建物をつくることであって、アバンギャルドで人々に強烈な印象を与えはするけれど5年後に見向きもされなくなるかもしれない、そんな建物をつくることではありません。

そう考えれば、私が目指す不動産とは、工芸品に近いと言えると思います。明確なコンセプトやデザインがあって、それを実現するレベルの高いクラフトマンシップがあって、美しく、しかもそれを利用する人が長く使い続けられるものが工芸品です。優れた工芸品とは、常に「用と美」つまり、実用性と美しさとが融合したものです。

優れた工芸品としての不動産とは、どうあるべきか。それもまた、私にとって極めて重要な問いなのです。

「一般住居はお金を生み出さない」という常識を壊す

建築のコストもまた、日本の不動産の新しい様式を生み出すにあたって避けては通れない問題です。現代の日本に残る美しい建物の多くは、公共のプロジェクトであったり、先に挙げた朝香宮などのように、皇族や大資本家などによって建てられたものであったりします。潤沢な資金を背景に、お金も時間も惜しむことなくかけることができたわけです。

現在の日本の一般の住居で、それと同じことができるはずはない。そんな考え方もあるでしょう。しかし、私はそうは思いません。ヒントは、商業系建築と住居系建築とのギャップにあります。

商業系物件の仕事をしていつもびっくりするのは、店舗の内装などに大変なお金がかけられていることです。高級ブランドの店舗なら、内装に一坪当たり200万円以上かけるケースも珍しくありません。それに対して、一般的な住居は、いかにコストをかけずに建てるかの勝負になります。建築総費用が一坪当たり50万円でも高いとされているのが住居の市場です。

この差が何に起因しているかは明らかです。商業建築はお金を生み出す。住居は、自宅であればお金を一銭も生み出さない。賃貸に出しても商業施設ほどの収益は生み出さない。だから、商業建築にはお金をかけられるが、住居にはかけられない──。そのような考え方が常識になっているからです。

私が一貫して問題にしているのは、まさしくその常識、「住居はお金を一銭も生み出さない」という常識です。

人々が商業建築にお金をかけるのは、そうやって建てた建物にお金を生み出すことを期待しているからです。ならば、住居もお金を生み出すことができれば、多くの建築費用を費やして、質の高い建物をつくることができるということです。それは可能なのか。

可能である、というのがこの本で私が何度も述べてきたことです。「洗練」「エモーショナル」「タイムレス」の3つの要素を備えた住居は、資産となるばかりでなく、その資産価値は時間がたっても落ちることはありません。壊されることもありません。少なくとも、パリやニューヨークではそれが不動産の真実です。日本にも、もちろんその真実は当てはまります。今の日本の住文化を変えることができるなら。

もちろん、商業系物件と住居では、収益の構造や事業計画のスパンは異なります。商業施設なら、うまくいけば建築時に費やした予算を数年で回収できるでしょう。住居の場合は売却時に、あるいは賃貸であれば月々の家賃収入と売却益によって、建築費用を回収することになります。その回収が完了するのが10年先なのか、20年先なのか、それとも50年先なのかはわかりません。

しかし、たとえ回収までに時間がかかったとしても、「資産価値が確かに残る」という揺るがぬ事実があれば、費用をかけて質の高い住宅をつくることができます。また逆に、質の高い住宅をつくることが資産価値を永続させることにもなります。そのような構造をつくり出せるかどうかによって、日本の不動産文化を刷新できるかどうかが決まるでしょう。

不動産会社が抱える組織的な問題

日本の住文化を変えるためには不動産文化を変えることが必要であり、そのためには不動産会社の組織のあり方も根本から改める必要があります。

通常、大手の不動産開発業者、つまりディベロッパーは、設計、建築といったクリエイティブ部門を社内に持っています。しかし、そういったクリエイティブ部門がビジネスの中心を担うことはほとんどありません。社内で圧倒的な力を持っているのは、お金を直接的に生み出す営業部門だからです。クリエイティブ部門とは、言ってみれば、営業部門の社内下請けに過ぎないのです。

営業担当者が重視しているのは、原価をできるだけ抑えて、早く、安くつくることです。金太郎飴のような物件を大量につくっても、それが売れるならまったく問題ではありません。情熱を傾け、手間暇をかけて一つひとつの物件をつくるのは完全な無駄である。そう考える営業担当者が少なくないのです。

この不動産会社の組織構造とそれを指示するトップの意識が、実は日本の住文化の多くの部分を規定してしまっていると私は考えています。営業主導で物件開発が進み、実際に物件をつくるクリエイターたちは、営業の顔色をうかがい、できるだけ時間とお金をかけずにそこそこのものをつくろうとする。そのようなビジネスの仕組みが優れた文化を生み出すはずはありません。

重要なのは、圧倒的に質の高いものをつくり、なおかつそれによって確実に収益を上げることです。クオリティと収益性が不可分のものとなるようなビジネスモデルをつくることです。そして、設計や建築部門の人たちが、自分たちの努力が収益性に結びついているという確かな手ごたえと誇りを得ることです。

不動産会社の営業担当者の多くは、自分が担当する物件を「俺の物件」だと思っています。プロデュースする権利が自分だけにある物件だと思っています。しかし、彼らにものづくりに必要なノウハウや知見はないから、結局、物件を囲い込んだ挙句に、金太郎飴のような何の個性もない姿で世に出してしまうわけです。そのような構図のなれの果てが、現在の日本の住文化というわけです。

アソシエーションをつくり、イノベーションを起こす

不動産会社の中のいろいろな部門が対等な関係となって、クオリティと収益性が両立するモデルをつくること。その先にあるビジョンは、業種や会社の枠を超えて志を一にするメンバーが集う一種のアソシエーションをつくることです。

日本の住文化を変えるという壮大な目標は、一企業だけで達成できるものではありません。設計者、デザイナー、建築家、アーティスト、職人、建材のサプライヤー、場合によっては行政の担当者や政治家──。そういった人たちとプロフェッショナルの集団をつくり、一つのムーブメントとしていくことが、目標達成のためには絶対に必要であると思います。

そのアソシエーションの中心となるのは、ディベロッパーでなければなりません。仕事をゼロからつくり出し、アソシエーションの仲間たちに仕事の場を提供できるのはディベロッパーだけだからです。ディベロッパーである私たちモリオ自身が主導してアソシエーションをつくり、そこに集まった仲間たちの思いを束ね、イノベーションを起こしていく。これが私のビジョンです。

異なるプレーヤーを結びつけるのは、仕事への情熱であり志です。設計者やデザイナーや職人の多くは、クオリティもアイデアも熟練の技も求められない仕事を、ぎりぎりのコストの中で進めることが常態になっています。にもかかわらず、仕様や仕上がりの基準や納期は絶対に守らなければならない。そのような業界のあり方に、フラストレーションを募らせている人たちは少なくありません。

それに対して、「コストや時間をある程度かけてもいいから、とにかくいいものをつくってほしい」という発注が来れば、プロとしての力を存分に発揮することができるし、何より仕事が楽しくなるに違いありません。それによって、モチベーションが高まり、建物のクオリティが高まり、資産価値が高まり、十分な収益性が生まれる。そのようなスパイラルができれば、日本の住文化は大きく変わっていくでしょう。

モリオは、本物を求めるあまり現状に不満を抱える真摯な探求者の受け皿になります。情熱と技術を持て余しているプロフェッショナルの方は、ぜひわれわれのもとに参集してください。

あらゆる文化のインフラとしての不動産

住文化とは、いわば日本文化全体のインフラです。住文化という基盤の上に、いろいろな文化が育ち、それが総体としての日本文化を豊かにしていく。そう私は考えています。

例えば、現在の日本では、アートはアーティストやアートの専門家のものです。アートの世界と普通の人々の日常生活は分断されてしまっています。しかし、欧米の多くの国では、アートは人々の生活の一部であり、住文化とはっきり結びついています。

高い絵をみんなが購入しているという意味ではありません。ちょっとした絵や写真で家の壁をデコレートする。それがないと家が完成しない。そういう意味での日常です。暮らしの文化の中に美が当たり前のものとして包含されているということです。

美しいものを自分たちの暮らしの一部とする。それは明らかに一つの文化であると思います。そのような文化的基盤ができれば、そこで生きる人たちは自然に成熟してくことになります。江戸の町に生きた人たちの洗練は、江戸という町が持っていた文化の力が生み出したものです。

美しく、細部まで意識の行き届いた住居に住み、歩くだけで気持ちが落ち着くような街で育った子供と、美しさというものにまったく無頓着な環境に生きた子供がそれぞれ将来どのように育っていくか。その違いは明らかだと思います。美に対する意識が満ち溢れた環境で育った子供は、その美意識を自分の中に育て、大人になれば美を自ら生み出すことになるでしょう。文化と人との関係とはそういうものです。文化は人がつくり出すものですが、その文化が人を育てていくことにもなるのです。

人を育て、人を豊かにし、人を幸せにする。その文化のインフラとなるのが不動産である。それが私の確信です。

不動産のイノベーションは日本の風景を変える

私たちモリオは、ビジネスのプレーヤーという意味では、いちディベロッパーに過ぎません。しかし、多くの大手ディベロッパーと異なるのは、自社が儲けること以上に、「世のため人のため」、つまり公共性を重視している点です。

いち企業である私たちが利益を上げることは、活動を続けていくための必須条件であることは言うまでもありませんが、それが私たちの目的の核ではありません。不動産業界に関わっている人たちが、自分たちのプロフェッショナリズムを十全に発揮することができて、極めてクオリティの高い建物が生まれ、そこに住む人たちの日々の生活が豊かになり、後年になってそれを売る際には十分な売却益が得られる。そういう不動産が日本全国に増えていって、日本の住文化の質が高まり、不動産全体の価値が上がり、それが日本経済を底上げする──。そこまでのビジョンを私たちは持っています。

建物だけではありません。街、景観、さらには都市までを生まれ変わらせることができたらどんなにいいでしょう。「不動産のイノベーション」というビジョンは、そこまでを含むものです。不動産のイノベーションによって変わるのは、日本の風景そのものなのです。私たちがパリやニューヨークに街並みそのものを楽しみに出かけるように、日本の都市の風景が変われば、日本の都市を楽しむために外国から人がたくさんやってくるでしょう。そうなれば、製品やサービスだけでなく、風景で外貨を稼げるようになるのです。

そういったビジョンを実現するための「旗」を立てることが自分の役割であると私は考えています。すでに、その旗のもとに参集してくれている人たちもいます。私とモリオが掲げるビジョンに魅力を感じ、「ぜひ一緒にやりたい」と言ってくれている人たちがいます。アソシエーションが実現すれば、そこからムーブメントが生まれます。いったんその流れができれば、もう誰にもその勢いは止められないはずです。

なぜならば、われわれが描く未来の姿と、その実現にむけた変革のグランドデザインは、圧倒的な説得力を持っているからです。たとえこれまでのビジネスモデルに固執して、既得権益を失いたくないと抵抗しようとも資産として生き続ける不動産と、美しい風景を本心から望まない人はいません。結論はもう出ているのです。

世界のトップに躍り出る

不動産イノベーションが実現すれば、戦後一貫して続いてきた「新築神話」と「住宅30年限界説」から日本の人々は解き放たれ、不動産は100年以上にわたって価値が保たれる本物の資産になるでしょう。

一度建てた家が「一生住み続けられる家」になれば、住宅ローンを払った後は住居費の負担はほとんどなくなり、その分、可処分所得が増えます。賃貸すれば、家賃収入が年金代わりになります。売却すれば、莫大な現金が手元に残ります。それだけではありません。その建物は、子、孫にまで受け継がれる財産にもなるのです。

つまり、不動産が資産になるということは、人々が経済的に現在よりも圧倒的に豊かになるということであり、不動産イノベーションを起こすことは、どんな経済政策よりも、骨太で本質的なソリューションになりうるということです。

イギリス人は、日本人などに比べると、あまり貯金をしない国民であると言われています。なぜなら、持ち家が貯金代わりになると考えているからです。不動産の価格は物件が古くなるほど上がっていくので、購入した時よりも必ずと言っていいほど高く売れる。これを「貯金」と見なすのです。現在の日本からは考えられないことですが、不動産イノベーションが起これば、日本でもこのようなことが当たり前になるでしょう。

住居の建て替えが必要なくなれば、欧米のように内装やインテリアにもっとお金をかけることができるようになります。結果、日常生活の中にアートが普通にあるような洗練されたライフスタイルが実現し、人々の美的感覚もより豊かになっていくでしょう。

個人の経済レベルや文化レベルが上がるだけではありません。個々の不動産に「美」という重要な要素が加われば、都市の美観も当然向上します。現在の日本の雑多で猥雑な街並みが美しい建物の集合体になり、街の風景が美しく変わるのです。そうなれば、日本人が美しい街並みを見るために欧米各国を訪れるように、日本にも「街を見る」という観光が生まれるでしょう。

建物や街並みという「ハード」が、さまざまな魅力的なコンテンツという「ソフト」が掛け合わされることで、何倍もの価値を生みます。日本のコンテンツには、世界でもトップクラスの魅力があります。食、アニメ、ゲーム、ファッション、四季、自然、おもてなし、治安──。それらの日本が世界に誇るべきコンテンツに、「街並み」が新たに加わるわけです。それによって、日本という国の観光価値が向上し、観光による収益が増大することになります。

パリ、ローマ、ロンドンといった街は、建物を壊さず、街の景観を何百年にもわたって守り続けてきました。それによって、現在に至るまで高い収益を上げ続けています。この収益性は今後も継続していくでしょう。永続的に高い収益を稼ぎ続ける街並みは、経済効果が高く効率的な社会の真の資産なのです。今後の日本の都市開発における本質的な課題は、パリやローマやロンドンのように、「永遠に稼ぎ続ける街をつくる」ことであると言っていいでしょう。

日本を「不動産先進国」にするために

ニューヨークやパリ、ロンドンの不動産を購入することは、世界中のセレブリティにとって、一種のステイタスシンボルになっています。日本の不動産の価値が向上し、グローバルな不動産マーケットでプレミアムなポジションを得ることができれば、世界のセレブリティがニューヨークやパリやロンドンと同じ土俵で日本の不動産物件を比較検討するようになるでしょう。そうなれば、日本の不動産の価値は跳ね上がることになります。

現在、マンハッタンと東京都心部の不動産価格には大きな開きがあります。マンションで見ると、この原稿を書いている2017年の年初時点において日本で一番高い価格で販売されているのは「元麻布パークハウス」で、区分価格が7億5000万円です。一方、マンハッタンには、30億円から100億円の区分物件がいくらでもあります。

重要なのは、その価格帯の中に築100年以上の物件がたくさんあるということです。元麻布パークハウスは築10年弱です。日本で築40年以上の物件を検索すると、「赤坂アーバンライフ」の2億5000万円が最高値です。築100年を超す物件がないので正確には比較しようがありませんが、マンハッタンと東京の不動産価格には、先進国と発展途上国くらいの差であると言っていいでしょう。

グローバル化によって、人、もの、金がボーダーレスに行き来するようになり、商品やサービスの価値が世界共通のマーケットの中で公平にジャッジされるようになっている現代において、日本の不動産は、その国際競争から取り残されてガラパゴス化している。この事実を、日本の人々はもっと重く受け止めるべきであると思います。

日本はもともと、世界的に見ても非常に魅力的な自然と美しい四季を持つ国です。その日本を、特徴も魅力もない金太郎飴のような街が点在する国にしてしまった歴代の政治家やディベロッパーの責任は非常に重いと私は思います。今こそ、新しいビジョンを提示し、日本が本来持っているポテンシャルを発揮するための取り組みを始めるべきです。このままでは、日本は「不動産後進国」の暗い道をまっしぐらに歩み続けることになります。

イタリアの地方の村を再生させた男

不動産イノベーションはまた、日本の都市部への異常な人口集中を是正することにもなります。

海外の先進国と比べても、東京を中心とする首都圏への人口集中は度を越しています。しかし、首都圏都市部の不動産価格が高騰すれば、物件を購入することが難しくなり、多くの人が郊外や地方に住まいを求めるようになるでしょう。結果、人口が分散していくことになるでしょう。

それは決して「勝ち組」と「負け組」を生み出すということではありません。経済力、価値観、ライフスタイル、嗜好性などに応じて、住むところを決められるようになるということです。都心でマンションを購入することが幸福の指標ではありません。お金があって、都市が好きならそうすればいいというだけのことです。住宅に費やせるお金がそれほどなく、かつ自然が好きなら、地方に住めばいいのです。先に紹介したフランスのサンリスのように、都会から離れた美しい村で過ごすことも幸福の一つの形です。

地方では、空き物件が年々増え続け、コミュニティが急速に劣化しています。どの自治体も地方活性化をスローガンにしていますが、地方を活性化させるほぼ唯一と言っていいソリューションは、「人口が増えること」です。そのためには、「地方に住みたい」と考える人が増えなればなりません。「一生ここで暮らしてもいい」と思える街並みが日本中になければなりません。だから、不動産イノベーションは地方においても必須なのです。

海外には、地方の価値を高める、という点で究極というべき取り組みをしている人物がいます。カシミアニットで有名なイタリアのファッションブランド「ブルネロ・クチネリ」の創業者であるブルネロ・クチネリ氏です。彼は、まさに「美」という視点によって、地方の小さな村の経済的価値、文化的価値を大きく高めた人です。

彼は、自分のブランドを立ち上げたあと、妻の生まれ故郷であるウンブリア地方のソロメオという小さな村に移住し、14世紀に建てられた古城を買い取り、それをリノベーションしてブルネロ・クチネリの本社としました。それだけではなく、村にあった工場を買い取って生まれ変わらせ、教会も修復し、図書館、アートフォーラムなどを建設し、ソロメオというさびれた村をファッションと文化と芸術の拠点としました。さらに、アートフォーラムの建築に携わった職人の技術を守ろうと、クラフトマンを育成するための「ソロメオ学校」も立ち上げたのです。

彼の理念と行動に、私は心から敬服しています。不動産イノベーションのお手本のような人物。そう言っていいと思います。

最強のソリューションとしての不動産イノベーション

それぞれの地方が、それぞれに工夫を凝らし、その土地のアイデンティティを体現した美しい街をつくり、そこを気に入って根を下ろす人たちが増える──。その前提となるのが不動産イノベーションです。

テクノロジーの進化や交通網の発達で、都市部と地方の利便性という点での格差は以前ほどなくなっています。地方にいても、あるいは離島にいても、常に最新の情報を入手できます。都市部に住まないとできない仕事は、以前と比べて非常に少なくなっています。

バブル時代にも、郊外や地方の開発は盛んでした。しかし、あの時代にはまだ、中央至上主義、都市至上主義が色濃くありました。都市部に住めないのは負け組という価値観がありました。不動産イノベーションは、その価値観から人々を解放します。

日本中に、美しく、何十年も何百年も住み続けられる物件が増えれば、都市にも郊外にも地方にも、その場所ならではの美しい街並みが生まれ、その土地ならではの生活のスタイルが生まれ、そこに住む人たちは自分が住む場所に心から誇りと愛着を持てるようになるでしょう。不動産イノベーションは、日本の経済力を上げるだけでなく、人口集中、地方の衰退と過疎化、空き家問題などをまとめて解決することのできる最強のソリューションなのです。

安倍晋三首相はかつて、日本を「美しい国」にすると宣言しました。そのビジョンを実現するためには、不動産イノベーションが絶対に必要です。不動産イノベーションによって美しい建物が生まれ、その結果として美しい都市が生まれる。その都市は世界中の羨望の対象となり、称賛の的となるでしょう。そうして日本人は、自分の国に愛着と誇りを持ち、日本人としてのアイデンティをより強く意識するようになるでしょう。その結果、日本は、経済だけではなく文化的に世界にも堂々と胸を張れる本当の意味で「美しい国」になるでしょう。

未来がよくなっていく予兆を見届けたい

もちろん、それほど簡単なことでないことは覚悟しています。そのビジョンを実現するためには、不屈のスピリットが求められるはずです。実現を目指す過程では、大変な緊張を強いられる戦いが続くでしょう。しかし、私はそれを恐れてはいません。むしろ、その過程を楽しみたいと思っています。

勢いに任せ、拙速にものごとを進めることは避けなければなりません。しっかりと地に足をつけ、私たちが掲げる理念を共有してくれる仲間を一人ひとり増やしていき、盤石のチームをつくり、その総力によって成果を一つひとつ挙げていく。そんなふうに事業を進めていきたいと思います。

もちろんスピードも大切です。歴史を紐解けば、ごく短い間に成し遂げられた変革は数え切れません。パラダイムシフトと呼ぶにふさわしい大変革は、そうしたものなのかもしれません。みんなが「これが勝ち馬だ」と思えば、雪崩を打ってそちらにシフトし、従来の価値観や常識は忘れ去られます。

その光景をこの目で見届けるために、自分の命を燃やし尽くしてでも、日本の不動産文化を変え、住文化を変えるというビジョンを私は実現していきます。そしてその思いを一人でも多くの仲間と共有したいのです。

その夢を実現する第一歩として、この本を書くことを決めました。この本を読んで共感していただけたなら、日本の不動産にイノベーションを起こすために、私たちと一緒に行動を起こしてください。不動産業界に関わる方であれば自らの事業を通じて、美しい家、美しい街、美しい国をつくる努力をしてください。

私たちは今、それを実際に形にするための知識と経験を死にものぐるいで自分たちのものにしようとしているところです。私たちに足りない実績、資本力、人材などを持っているなら、どうぞ力を貸してください。その代わり、私たちも一切の出し惜しみはしません。力を結集して、日本の不動産の新しい時代を拓いていきましょう。

この本を読んで、「大した実績もないのに何を大きなことを言っているんだ」と思われた方もいるはずです。もしかしたら、こちらのほうが多いかもしれません。でも、本を書いたり発言したりして一番つらいのは何の反応もないことなので、そういう声もありがたく受けとめます。フラットアイアンビルの設計者ダニエル・バーナムは、次のような言葉を残しています。

小さな計画など立ててはいけない。
人々を奮い立たせることもないし、実現することもないからだ。
大きな計画を立てよ。高い志を持って描かれた論理的な設計図は、
いったん記憶されれば決して消えることはない。

日本の不動産にイノベーションを起こすという私の計画は、大きさという点ではバーナムの「シカゴ・プラン」に引けを取らないと自負しています。笑われたり、「できっこない」と断じられることは私たちの成長の糧であり、何ら心をくじくものではありません。「バカ者」の顔を一度見てやろうという方は、ぜひ私たちに会いに来てください。じっくり話をする機会をいただければ、それほどうれしいことはありません。

みなさんのアクションを心からお待ちしています。

— 第 四 章 終 —
A Dialogue

対談 ── 日本の住文化は本当に変わるのか?

ファブリツィオ・グラッセッリ Fabrizio Grasselli 1955年、イタリア・クレモーナ生まれ。ミラノ工科大学を卒業後、建築家となる。20数年前に日本に永住。イタリアの文化団体「ダンテ・アリギエーリ協会」東京支部会長。同団体が設立したイタリア語学校「イル・チェントロ」の校長も務める。著書に『イタリアと日本人、どっちがバカ』『イタリアワイン秘ファイル』(以上、文春新書)、『イタリア人が見た日本の「家と街」の不思議』(パブラボ)などがある。
森田夏光とファブリツィオ・グラッセッリ
Plate VI 建築家ファブリツィオ・グラッセッリ氏と。

初めての日本で感じたカルチャーショック

森田この本に対談を入れようという話が出たとき、真っ先に対談相手として名前が浮かんだのがファブリツィオさんでした。『イタリア人が見た日本の「家と街」の不思議』という著書を読んで、考え方やビジョンに非常に共通するものを感じたからです。

グラッセッリそれは光栄です。

森田もともと日本とはどのようなご縁があったのですか。

グラッセッリ「ドムス」(domus)というイタリアの建築雑誌をご存知だと思います。その雑誌社が主催しているデザイン学校があって、それに私は関わっていました。その学校を東京でも展開するという計画があって日本に来たのが20年以上前のことです。結局その計画は実現しなかったのですが、それ以来、ずっと日本に居ついてしまいました(笑)。

森田日本に最初に来た時の印象を憶えていますか。

グラッセッリデザイン学校の計画が出る確か一年半ほど前に、一度日本に来たことがありました。成田からすぐ京都に行って、そのあと金沢にも行きましたが、本当にカルチャーショックでしたね。

森田カルチャーショック?

グラッセッリええ。私のイメージの中の日本とあまりにもかけ離れていたからです。京都の駅を出ると、いろいろな近代的な建物が雑然と建っているでしょう。「こんなの京都じゃない」と思いましたね。しかし、逆にそこに興味を覚えました。このギャップは何だろう、と。それでむしろ日本をもっと知りなくなったんです。その後、デザイン学校の計画が持ち上がった時に、「ぜひ、日本に行かせてくれ」と手を挙げたわけです。

森田それは面白いですね。私は、建築を専門的に学んだことはないのですが、十代の頃からファッションや音楽が好きで、ものをつくることも好きでした。大学を出て、たまたま不動産会社に25歳くらいの時に入って、そこから今のキャリアが始まっています。最初の会社はディベロッパーで、次の会社は、中古マンションを買い取ってリフォームやリノベーションをして売るというビジネスモデルの会社でした。

グラッセッリセールスの仕事をしていたのですか。

森田セールスではなく中古物件の仕入れですね。その会社が手掛けるリノベーションは、デザインが非常に画一的で、判で押したようなつくりのマンションばかりでした。驚くべきことですが、1000万円の物件も1億円の物件も基本的に同じなんですよ。私はそれを本当にナンセンスと思っていて、もっとクオリティの高い物件を自らの手でつくってみたいと思いました。それで会社を立ち上げたわけです。

建物は「商品」、住む人は「消費者」という貧しい価値観

森田日本人の私から見ても、日本の文化や、日本人がつくり出しているコンテンツや技術は素晴らしいと思うんです。日本食にも、アニメにも、エレクトロニクスにも世界中で通用するものがたくさんあります。でも、なぜか住文化だけはまったくだめなんです。かっこ悪いし、美しくない。

グラッセッリ日本の様々な文化は、おっしゃるように、世界の国々から尊敬されています。その日本が「住」の領域において誇るべきものが少ないというのは、非常に残念なことです。

森田ええ。で、私はニューヨークとパリに行った時、ファブリツィオさんとは逆の意味でカルチャーショックを受けたんです。街角のごく普通の建物が、どうしてこんなに美しいのだろうと思いました。しかも、100年以上も前に建てられている物件がたくさんあるのです。

森田それから、びっくりしたのはニューヨークのマンションの値段です。日本の高級マンションの何倍もの価格のマンションがニューヨークにはたくさんあります。建物が美しいだけでなく、資産として高く評価されているわけです。しかも、もう一度言いますが、築100年で、ですよ。そうなると、日本の常識である「築年が古ければ価値が落ちる」という考え方について、どうしたって疑問を持たざるを得なくなります。

グラッセッリニューヨークのマンションの価格は、ちょっと信じられないくらいですよね。

森田もう、信じられません(笑)。マンハッタンの中心だと、一部屋何十億円という世界でしょう。日本ではいくら高級マンションといっても、そんな価格の物件はほぼありませんよ。でも、例えば経済規模で比較すると、東京は世界一の経済都市で、二位のニューヨークを大きく引き離していますよね。経済規模は上なのに不動産の価格は比べものにならない。これはどういうことなんだと私は思うわけです。

森田しかし逆に考えれば、日本にはまだまだポテンシャルがあるということです。日本で美しい建築物をたくさん建てて、日本ならではの美しい街をつくることができれば、日本の文化的、経済的価値を今とは比較にならないぐらい引き上げることができるんじゃないか。

グラッセッリイタリアでは歴史的に、家も街も「美しさ」を中心に構築するという伝統があります。これはイタリアだけでなく、多くのヨーロッパの国に共通する伝統です。

グラッセッリイタリアは日本と同じように、第二次大戦のときに街や建物がかなり破壊されました。日本と違うのは、戦後、復興を目指す中で、もともと持っていたイタリアのアイデンティティや美しさを重視する方向で再構築がなされた点です。これは、行政が指示したわけではなく、工業系や建築系の大学、あるいは建築会社など、実際にものづくりに携わる人たちが実践したことでした。決して計画的に、トップダウンで行われたことではないんですよ。

森田戦後の日本はその点、建物を「商品」とだけ考えて、そこに住む人たちを「消費者」としてしか捉えてこなかった。そして、建物の持つ「資産」としての本質を無視してきた。この差は大きいですよね。

グラッセッリ重要なのは、そういう取り組みがまさしく経済的価値を生んでいる点です。戦後に建てられた建物の中には、数十年で取引価格が百倍近くに上がった物件もあります。私は以前、慶応義塾大学で教えていたことがあるのですが、日本には非常に優秀な学生がたくさんいて、知的レベルも志も高いのですが、街がもつ歴史的な意味とか、街並みの美しさの重要性とか、それが生み出すバリューに関する「観念」のない人たちがほとんどでした。知らないのではなく、考えたことがないのです。それにたいへんショックを受けましたね。

「経済的価値」からのアプローチ

森田欧米の人たちにとっては生活の中にアートがあるのが当たり前で、美しさと共存するのが生活の豊かさであるという考え方がごく普通にあるように思います。パリやマンハッタンでマンションを買う人の中には、アートや工芸品のような感覚で住居を買っている人が少なくないですよね。

グラッセッリそう、絵を買うような感覚でね。

森田一方、日本に工芸品やアートのような不動産があるか。もちろん、ないことはないんですよ。赤坂の迎賓館とか、伊勢神宮とか、京都の東寺の五重塔とか。でも、ああいう建物を一般の人たちが買うことはできません。ああいった工芸的、アート的建築と、一般の人たちが住む住居は、完全に別のものになってしまっているんです。

グラッセッリ人が日常的に暮らす住居は美しくなくてもいい。そんな感覚が普通になってしまっているのでしょうね。イタリアに限らずヨーロッパでは、お金持ちでもそうでなくても、それぞれの経済レベルに応じて家を美しく飾るという文化があります。経済的余裕があまりないのであれば、イケアのような大衆的な店でリーズナブルな家具や装飾品を買って、家をきれいにして、お客さんを招けるようにする。自分が住んでいる家が汚いということは恥ずかしいことであり、誇りを失うということだと考えているのです。

森田私は、欧米ではスタンダードになっているその感覚を日本にも根づかせていきたいんです。しかし、そのことを言葉だけで伝えてもなかなかわかってはもらえない。では、どうすればいいのか。

森田私たちはディベロッパーという立場ですが、住文化に関する日本人の価値観を本当に変えられるのは、ディベロッパーだけだと私は考えています。なぜかというと、美しい住居、美しいビル、美しい街に価値があるという事実を、リスクを負ってで証明できるのはディベロッパーだからです。美しいものを実際につくって、それによって非常に高い収益を上げる。美と経済的価値は両立するばかりでなく、シナジーの関係にあるということを示す。そういう事実を私たちディベロッパーが証明しないと納得してもらえないと思うんです。

森田日本人だって、自分が持っている不動産の価値を上げたいということはみんな思っているんですよ。だから、「美しい建物を建てよう」という観念的なアプローチよりも、「現実に美しい建物は儲かる」という経済的価値の方からアプローチしていくことが一番の早道なんじゃないか。それを突破口にするつもりです。

パテック・フィリップのような不動産を創造する

森田私は会社を設立してから、「不動産の価値って何だろう?」とずっと考えてきました。建物を建てて、高い家賃収入があって、それが百年後までも続く。そんな価値を持つ不動産の要素とは何なんだろうって。

森田ニューヨークに行ってわかったことは、答えはとてもシンプルだということでした。街角のブラウンストーンのアパートメントを見たとき、ため息がでるくらいきれいだと私は思いました。心からかっこいいと思いました。結局、それが答えなんです。人の感情に訴えかける美しさ。エモーショナルな感情を呼び起こすかっこよさ。それこそが不動産の価値である。そのことを私は確信しました。

グラッセッリエモーション──。それは本当に重要なキーワードです。美に対するエモーション、欲求。そういうものが不動産の価値のベースになると私も思います。

森田ひるがえって日本の不動産業界を見ると、エモーショナルな部分は極力排除して、機能や性能だけをひたすら追求している。エモーショナルな価値を求めると、手間もコストもかかりますから、「機能や性能こそが住宅の価値である」と誘導した方がお手軽なんです。ファブリツィオさんも著書で書かれていますが、システムバスとか、床暖房とか。そこだけを見れば、日本の最新のマンションはマンハッタンのアパートよりはるかに優れています。しかし、結局そういうマンションが30年で壊されてしまうわけです。

グラッセッリそれも信じられませんね。イタリアの感覚では、ちょっとありえないです。

森田こういう美と機能性の関係は、例えば時計で考えるとわかりやすいと思うんです。日本製の高精度の時計がありますよね。これは、機能性という点ではすごい。0.1秒も狂わないし、ストップウォッチがついているし、なかなか壊れないし、防水機能も申し分ない。目覚まし機能までついています。

森田それに対して、パテック・フィリップはどうか。時間は狂うし、壊れるし、特段便利というわけでもない。しかし、値段は日本製の高精度の時計とは比べものになりません。いいものだと、家が建つくらいの値段がします。

森田使っている素材に多少の違いがあるとしても、それだけでこの価格差は説明がつきません。つまり時計の本質的価値は、機能や性能ではなく、人々を感動させるような美しいフォルムやデザインにあるということです。エモーショナルな要素にあるということです。

グラッセッリなるほど。面白いですね。

森田しかし、エモーショナルな魅力があっても、それが持続しなければ意味はありません。百年たっても、200年たっても美しいと思えるようなものでなければならない。パテックは製造年代が古いものほど高くなります。

森田そのようなデザインの本質とは何だろうと考えると、結局のところ、「黄金比」とか「トラディショナル」とか「クラシック」ということに行きつくと思うわけです。欧米の人たちの美的感覚のベースには、それが確実にあるのではないでしょうか。

森田だから、私の理想はシンプルなんですよ。パテック・フィリップのような、優れた製品、優れた工芸品としての不動産をつくること。これに尽きます。今の日本にあふれている、モダニズムを間違って解釈して都合のいい部分だけを流用した何の個性もない不動産ではなく。

グラッセッリ今の日本で流行っている住居は、私に言わせれば、モダニズムではなくインダストリアリズム、工業主義です。工業的な合理性を追求しているだけであって、本当のモダニズムではない。

グラッセッリまあそれはさておき、それはとても興味深い話です。不動産の最大の価値とはエモーショナルであることであり、トラディショナルでクラシックな意匠こそが持続する美である──。それには私も本当に同意できますね。

経済とアートが結びついて文化をつくった

森田そのような考え方を「逆説的アプローチ」で広めていくのが、私たちの戦略です。繰り返しになりますが、今言ったようなことを、理念や観念として広めていくことは難しいと思うんです。しかし、実際に高い家賃がとれて、高い収益性が持続する物件があって、その収益性が実は高いデザイン性やエモーショナルな要素によって支えられている。そんな順序で理解してもらえれば、多くの人はその考えに乗ってくるはずです。それが逆説的アプローチということです。

グラッセッリあくまで戦略として。

森田そう、戦略として。一方に美しいものがあって、一方にアメリカ的な金融資本主義というか、収益第一という価値観がある。それはまったく別物であるという感覚が現代の日本人にはあると思うんです。例えば、日本の多くのディベロッパーは、収益を上げるには美しいものはいらないと考えています。早く安くできればいいんだと。そして、それを享受する消費者もその価値観に同調している。それが現在の日本の現実です。

森田しかし、欧米では美しく豊かな文化が収益にもつながるという確固たる構造がありますよね。不動産もそうだし、例えばアグリツーリズムのようなビジネスもそうです。本来、美しさや豊かさと収益性は背反するものではないはずなんです。しかし、それを今の日本の人たちにわかってもらうのは簡単ではありません。美しいものをつくって、それによって高い収益を上げて、儲かるということを証明していかない限り、振り向いてはもらえない。そう私は思うわけです。

グラッセッリ経済と美。その二つがまったく別ものであるという考えが間違いであるというのは、まさにその通りだと思います。

グラッセッリルネッサンスを含めた西洋文化の発展の後押しをしたのは、14世紀に登場したメディチ家などの銀行家でした。銀行家が芸術家に投資をすることで、エコノミーとアートが結びついて、文化を形づくっていったわけです。

グラッセッリフィレンツェという街が今でも美しいのは、メディチ家などが中世のドルと呼ばれたフィオリーニという金貨をもって、芸術家や建築家を支援しながら、街をつくっていったからです。まさに、経済と芸術が手を携えてあの街の美しさを生み出したということです。それから500年以上たった今日でも、世界中から多くの人がフィレンツェに集まり、あの街を経済的に豊かにしています。500年前の「美に対する投資」が現在も効果を持続している。これはすごいことです。

森田30年たったら壊されるような建物を建て続けているのとは正反対の文化ですよね。欧米の人たちは、美に対する投資効果を長い年月の中で享受してきたから、経済と文化は一体のものであるという感覚が体に染みついているのではないでしょうか。

アソシエーションをつくり、ムーブメントを起こす

森田ファブリツィオさんの本を読ませていただいて思ったのは、やはり諸悪の根源は、私たち不動産ディベロッパーだということです。しかし、これも繰り返しになりますが、現状を変えることができるのも、やはりディベロッパーだと私は思うわけです。デザイナーや建築家はどれだけ高い志があっても、基本的には依頼を受けて仕事をする立場ですから、自分のイデアを100パーセント仕事で実現することは難しいですよね。それに対し、ディベロッパーは自らお金を出して、自らリスクをとって、理念を実現することができるわけです。高い志を掲げるディベロッパーが、志をもった建築家やデザイナーに仕事を依頼し、ともに素晴らしいものをつくっていく。それしかないと思います。

グラッセッリ私がちょっと危惧するのは、個々の不動産建設や小規模なエリア開発の場合であれば、森田さんの会社が単独で動くということも可能だと思いますが、もっと大規模な開発とか、あるいは、先ほどから出ているように、文化的な基盤そのものを変えていくということを射程に入れた場合、一企業の努力で何とかなるのかということです。

森田おっしゃることはよくわかります。プロジェクトが大きくなれば、既得権益を持った旧来のディベロッパーや、場合によっては政治家も絡むような話になってきますからね。いかに大きな志があるとはいえ、一企業だけではどうにもならない場面は当然あると思います。だからこそ私は、「ムーブメント」が必要だと思っているんです。

森田明治維新はご存知だと思います。圧倒的なマイノリティがマジョリティを倒し、ほとんど一夜にして日本を変えてしまった一種の革命ですが、あれを可能にしたのは、まさしくムーブメントの力だと思います。

森田私たちはまだまだ小さな存在ですが、すでに私たちに大きな可能性を見出し、アプローチをしてくれているデザイナーや建築家、アーティストといった方々がいます。それぞれに高い志を持っているのだけれど、今の仕事や職場ではそれを実現するのはむずかしいと考えている。そんな人たちです。

森田こういう人たちと一緒にムーブメントの核をつくって、それを徐々にゼネコンや他のディベロッパー、建築家、あるいは政治家などに広げていこうと考えています。志を同じくする多様なプレーヤーが集まり、小さな利害を超えたいわばアソシエーションのようなものをつくって、「日本のアイデンティティを復興させる美しい街づくりを実現しよう」というムーブメントを起こしていく。それが私のビジョンです。

グラッセッリなるほど。そのビジョンは私も共有できますね。私は、これまで文芸春秋社のような大きな出版社から何冊か本を出してきましたが、森田さんが私を知るきかっけとなった『イタリア人が見た日本の「家と街」の不思議』はあえて小さい出版社から出しました。小さいところから徐々にムーブメントを広げていきたいと考えたからです。森田さんが、小さい会社から少しずつムーブメントを広げていって、そこから日本を変えていくというコンセプト自体は、私がこの本を書いた思いと一緒です。上から変えるのではなく、下から動かしていく。それがベストなやり方だと思います。

森田まさに明治維新ですね。

グラッセッリそれを実現するためには、アソシエーションに参加するそれぞれの人たちが小さなリスクを背負う覚悟を持たなければならないと思います。もしかしたら、たくさんは儲からないかもしれないけれども、これまでになかったアソシエーションをつくって、日本を変えていこう。そんなムーブメントをなるといいですよね。

森田それぞれが小さなリスクを負わなければならないというのはよくわかります。しかし、本当に力のあるアソシエーションをつくろうと思ったら、生きるか死ぬかぐらいの覚悟をもったリスクテイカーがそのど真ん中にいなければならないと思うんです。私は、そのリスクテイカーになるつもりです。そういう人間がいて、そいつが旗印を掲げないと本当の変革は起こせないと思うんです。

森田何も悲壮な決意をもってそう言っているわけではありません(笑)。正直、ワクワクする気持ちしかないからです。リスクをとった結果、必ず成功する。なぜならば、日本がそれを必要としているからです。成功する確信があるから、リスクをとることをむしろエンジョイしているんです。

グラッセッリなるほど。私が言いたかったのは、小さなステップを積んでいくことが大切であるということです。ネズミが壁に穴を開ける場合でも、少しずつかじっていかなければ開きませんよね。そういうステップバイステップが必要であり、それをいろいろな人の力を合わせて進めていくことが大切だということです。

森田おっしゃるとおりですね。どれだけ志と力をもった仲間を集められるか。それがこれからの勝負になると思います。

いかに職人の地位を高めていくか

グラッセッリ仲間を見つけていくのは、とても大切なことです。イタリアで起きたルネッサンスの運動も、はじめは、パドヴァやフィレンツェといった小さな街の工房や芸術家のアトリエからはじまったものです。そこにいろいろな仲間同士のコネクションが生まれて大きなムーブメントとなり、あれだけのことが起きたわけです。1930年代のバウハウスやモダニズムの運動にも似たところがあります。そういった過去の運動をぜひ参考にして、日本でムーブメントを起こしてほしいですね。

森田ええ。問題は、そのムーブメントをもってどのような街を生み出していくのか。そのイメージづくりにあると思っています。例えば、仮に今の東京を、日本のアイデンティティを明確に表現する街に変えていこうと考えた場合、具体的にどうするのか。古い京都のような街並みをそのまま再現するのは難しいですよね。人口を考えれば、高層建築は当然必要になります。マンハッタンやパリの街並みはお手本にはなりますが、それをそのままコピーしても仕方がない。

グラッセッリ明治時代の日本は西洋の建築のコピーをしましたよね。

森田西洋のアールデコをコピーしましたね。明治時代にはいろいろなヒントがあると私は思っています。なぜなら、コピーではあっても、そこには一種の「様式」があったからです。美しい日本というアイデンティティを未来に向かってつくっていくためには、新しい様式、日本ならではの新しい様式がなければいけない。しかし、今の日本の建物には様式がありません。イズムがあるとすれば、さっきファブリツィオさんがおっしゃったインダストリアリズムだけです。様式やイズムのない建築は、ただの箱です。

グラッセッリ江戸の様式、あるいはそれ以前の日本の建築様式は素晴らしいものだと思います。また、海外にもいろいろな優れたスタイルがあります。しかし、それをそのまままねるのではなく、新しいスタイルをつくらなければならない。その志は素晴らしいと思います。

グラッセッリモダニズムの後に続いたポストモダンの時代は、結局、確固たるスタイルをつくることができなかった時代です。むしろ、スタイルをつくることを拒否するような風潮がありました。その結果、いろいろなスタイルが玉石混交の状態になっているのが現状です。そこから一つのスタイルをつくっていく取り組みをしないと、次の時代は来ないという気がします。

グラッセッリそのような新しいスタイルは、大学の座学の中から生まれるものではありません。実際に働いて、お金を生み出している人たちの中からしか生まれないと思います。

グラッセッリあえて繰り返しますが、重要なのは仲間の存在です。建築家、デザイナー、アーティスト、政治家。それから、忘れてはならないのは、クラフトマンの存在ですね。ルネッサンスには、工芸的な分野での技術やノウハウの発達があの運動を推進したという側面があります。新しい技術を生み出して、実際に使うことができるのはクラフトマン、つまり職人です。

森田まさにその通りだと思います。ものすごくレベルが高い職人が必要です。パテック・フィリップにしても、アストンマーティンのような車にしても、ものすごいハンドメイドの技術を持った職人がつくっているわけですよね。しかし、今の日本の不動産業界には、プレハブ住宅を建てるくらいの技術しかない職人も多いし、挑戦的な仕事をする機会も与えられていません。

グラッセッリ日本では、優れた技術を持っている職人が減ってきていますよね。

森田明治の頃は志を高く持った職人の集団があって、職人がみんなスーツを着たりしていたわけです。社会的地位が高く、尊敬もされていた。あのくらいまでに職人の地位を高めていくことが必要です。そうすれば、優秀な人が集まってくるはずです。

優れた感受性をもった人を育てることが必要

森田一人の建築家として、新しい日本のスタイルをつくるヒントやアイデアなどはありますか。

グラッセッリそれがあったら、100万ユーロぐらいは稼げそうです(笑)。

森田本当にそのとおりですね。世界中の人たちが「これぞ日本だ」と思う新しいスタイルをつくることができれば、それだけの経済価値は生まれますよ。そのスタイルを生むことができたら、今の日本の不動産価格を二倍、三倍にすることはたやすいと思います。

森田一つ、ファブリツィオさんの著書の中にヒントがあると思ったのは、建材です。日本には焼き物の優れた技術があります。美しい焼き物がたくさんあります。装飾の面では、そういう日本独自の伝統技術を使っていくというのは一つの方向性だと思います。

グラッセッリ確かに、日本の工芸品にはいろいろな可能性がありそうですね。それから、やはり大切なのは「人」でしょう。優れた感受性をもった人を見つけ、育てていくこと。そこにも注力すべきだと思います。

グラッセッリこれは実はものすごく重いテーマです。日本の戦後の教育は、感受性や志を育てるという方向で実践されてはこなかったように思います。学校においても家庭においても、豊かな感受性を持った人を育てるということに本気で取り組まないと、文化は変わっていきません。

森田それができれば、日本は世界の中でもっと価値のある国に間違いなくなるでしょう。今後、日本は人口が減っていくし、移民を受け入れて解決しなければならない問題も出てくるかもしれない。それでも、日本が新しい勢いを取り戻すことは、決して不可能ではないと思います。昨今、様々な政策が語られていますが、根本的に日本を豊かにするのは、美しく新しい都市の創造である。そう私は考えています。それが世界に誇れる日本をつくる最善の方法であり、そこにこそ真の活路があると。

グラッセッリもう一つ指摘しておきたいのは、建築や都市開発に関して、狭い世界だけでお金が回るようなシステムが日本にはありますよね。そのシステムというか、お金が回る範囲をもっともっと広げていかなければならないということです。そうして、小さな会社や職人にもお金が回るような仕組みができれば、状況は少しずつよくなるはずです。逆にそれができなければ、経済のエネルギーを弱める要因になるのではないでしょうか。

ビジョンの核にあるのは「公共性」

森田建築家として日本でやってみたい仕事はありますか。

グラッセッリ私はもともと建築家ですが、残念ながら現在は建築の仕事ができるような環境にはないんです。だから、学校でイタリア語を教えたりしているのですが、仕事ができる環境さえ整えば、ぜひいろいろな建築を手がけてみたいですね。

森田ファブリツィオさんのような建築家が活躍できる環境が日本にないというのは、大きな問題です。その環境をつくり出すのがディベロッパーの役割です。

森田イタリア風とか、フランス風とか、ブルックリン風など、いろいろなタイプの建築が日本にはあります。しかし、そのほとんどは偽物、イミテーションです。なぜイミテーションになってしまうかというと、結局、ディベロッパーのフィルターがかかってしまうからです。「そんなにお金はかけられない」「そんなに時間はかけられない」「そこまでやったらちょっとエッジが効き過ぎてお客さんに受け入れられない」──。そういうブレーキをディベロッパーがかけてしまうから、本当にクオリティの高い建築はできない。それが日本の現状です。

森田だからこそ、変わらなければならないのは、第一にディベロッパーだと思うわけです。ディベロッパーが変われば、志をもった建築家やアーティストが本物の建築をつくることができるようになります。

グラッセッリ本物を、ね。そうなってほしいと思います。

森田私たちのビジョンの強みは、「公共性」があることだと私は考えています。自分たちが儲けることだけを考えているようなディベロッパーと違って、私たちは日本の不動産にイノベーションを起こし、100年以上価値が続くような不動産を開発して、日本のみんなの暮らしを豊かにしたいわけです。

森田それを実現するためには、われわれ自身ももちろん儲けないといけません。収益を上げられなければ活動を継続していくことはできないし、それなりの資金がなければチャレンジングなプロジェクトを実行することはできませんから。ただし、儲けることは目的なのではなく、あくまでも志を実現するための手段なんです。その志によってアソシエーションをつくり、ムーブメントを起こしイノベーションを実現させたい。少なくともそこまでは、自分が生きているうちになんとかしたい(笑)。そう思っています。

グラッセッリ私たちが今日話したことの可能性を、多くの人たちに信じてもらいたいと思います。一緒に頑張りましょう。

— 2016年10月13日、東京・池袋のMORIO本社にて —
— 対 談 終 —
— Declaration —

不动产创新宣言

The Five Articles
I
日本的不动产急速老化,平均约 30 年便迎来寿命的终点。这是因为在日本,人们理所当然地将不动产视为「消费品」,而非作为资产去培育。结果,日本不动产的资产性与收益性都极为低下。即便与欧美发达国家、乃至中东和亚洲若干国家相比,日本的不动产价格也偏低,作为资产的功能更是极其脆弱。
II
此处,正潜藏着日本经济体量虽大、个人却迟迟难以富裕的最大原因之一。要让日本成为真正富裕的国家,就需要对本应是个人与社会最大、最重要资产的不动产进行创新。
III
问题的本质在于:战后,政府与不动产开发商推广「能更快、更便宜建成的住宅」,并植入了「不动产的价值在于功能性」这一错误的价值观。由此,日本的国家利益在经济与文化两方面都受到了严重损害。不动产创新的本质,正在于证明并实现「建造美的不动产,便是提升不动产文化与经济价值」这一思想。
IV
要让日本在文化与经济上都成为真正意义上的发达国家,就必须最大限度地引发出日本所拥有的潜力。为此,开发商必须率先承担风险,建造与当代日本相称的「美的不动产」。开发商必须站在最前列,重新定义并创造出富有日本特色的全新建筑样式与设计身份。
V
日本至今曾数度经历决定性的创新与范式转移。例如明治维新,便是一场由怀抱志向的少数者团结起来、以大义变革错误成见的创新。要在今日的日本掀起不动产创新,除开发商之外,还需要设计师、艺术家、建筑师、匠人、学者、综合承包商、政治家等各领域的专家齐聚一堂,结成联盟,掀起一场宏大的运动。唯有当这场运动所追求的目标升华至国民共识、乃至国策的层面,真正意义上的不动产创新方能实现。
— Colophon —
不 动 产 创 新 宣 言
Morio the Mann · 森田 夏光
Originally written Anno Domini 2017
Reissued as a digital edition Anno Domini 2026

Published by 株式会社 MORIO
Tokyo, Japan
— Fin —